画像:photoACoyaji2020さん
父の訃報
2021年9月17日(金)22:30
暗闇の中、突然鳴り響くわたしの携帯。
すっかり寝床に入り、眠りに落ちそうだったその時、めったに鳴らないわたしの携帯が鳴った。
母だった。
瞬時に悪い知らせであることを、胸の奥で感じた。
「お父さん、亡くなったよ。」と、いつになく静かな母の声。
覚悟はしていたけど、やっぱり、父の最期に立ち会うことはかなわなかった。
近くにいた母も兄も、間に合わなかった。
父は、たった一人で逝ってしまった。
74年の父の人生の幕は、あっけなく、あっという間に閉じられました。
ここ数か月間、「そろそろ危ない」と、何度も母から聞かされていたので覚悟はしていたけど、その時は、あまりにも突然やってきました。
もう一度、もう一度だけ、なんとか会って、父に触れたいと思っていたけれど、コロナ禍にて、それはかなわなかった。
父と最後に会話を交わしたのは、2020年12月。
年末に帰省したい際に、10分間だけリモート通信にて、スクリーン越しに父と話しました。
会話というより、わたしが一方的に想いを伝えただけで、父はすでに、あまり話ができるほど元気じゃなかったのだけれど、わたしは心のどこかで、「これが最後になるかもしれない」と、思っていたのかもしれませんね。
わたしは、いつになく、
「お父さん、離れているけど、いつも思っているからね」
「お父さん、愛しているよ、いつも一緒だよ」
「お父さん、今までありがとうね」
と、まわりを気にせずに、はっきりと言葉で、父に伝えている自分がいました。
父は、顔をくしゃくしゃにして、泣いてました。
きちんと、想いを伝えられただけ、良かったかもしれません。
父の亡骸と過ごした日々
父が亡くなった次の日、朝一番で実家に帰り、父に会いに行きました。
葬儀屋の安置所に移され、祭壇の前に横たわる父の亡骸。
しばらく見ないうちに、父は、とっても小さくなっていました。
純白のお布団に横たわっている父は、ただただ安らかな顔で、眠っているようにしか見えませんでした。
ずっと、直接会うことが叶わなくて、父に触れてあげることができなかったから、角刈りの父の頭と、ほっぺたに触れ、なでなでしながら、「お父さん、会いに来たよ。よく頑張って生きたね。お疲れさま。ゆっくり休んでね」と、長年、身体に障害を持ちながらも、一生懸命生きた父に、労いの言葉をかけました。
父の頭もほっぺたも、もう、冷たかったけれど、まだ、柔らかかったから、なんとなく、父が亡くなったという実感がイマイチ得られないまま、納棺やら、通夜や葬儀の準備などで、時間が過ぎていきました。
まじまじと、父の顔を覗き込んでは、頭とほっぺたを触って、父が亡くなったということを実感しようとしたけれど、イマイチ実感できず、何度も父の顔を覗き込むわたし。
通夜と葬儀の日程の都合にて、父の亡骸は、4日間安置所で保管され、その間、わたしたち家族は、毎日父に会いに行き、父に話かけ、父に触れ、父の亡骸の前で、葬儀の打ち合わせや、親族との面会やらで、せわしく時間が過ぎていきました。
納棺の儀式
うちの家族の宗派は、浄土真宗。
葬儀の時でない限り、あまり気にも留めない宗派。
浄土真宗の儀式を教わりながら、納棺の儀式が行われました。
50歳を手前にして、はじめての経験でした。
納棺師という職業が脚光を浴びる機会となった、本木雅弘さん主演の映画「おくりびと」は山形が舞台で、その映画以来、リアルライフにおける納棺の儀式への要求が、「おくりびと」の納棺師同様のホスピタリティのレベルに引き上げられてしまったのだとか。
20~30代の若い男性の納棺師さんに、お世話になりました。
わたしの実家の地域では、納棺の儀式には遺族が立ち合い、共同作業で納棺をするようで、納棺師さんの教えに従って、父の亡骸を納棺しました。
父はずっと入院していて、お風呂もたまにしか入れなかったようなので、最期にさっぱり気持ちよくなって欲しいなと思い、ドライシャンプーをオプションサービスにて、して頂きました。
出棺まで自然な血色を保てるように、ナチュラルメイクをして頂き、手足をマッサージしてもらって、家族みんなで顔や手、足を優しく拭いて、足袋をはかせました。
また、葬儀屋さんのサービスで、棺用の畳があるとのことで、少々お金はかかりましたが、い草の良い香りの畳を棺に敷いて、その上にお布団を敷いて、父を寝かせました。
棺の中には、父が大好きだったたばこと、ペットボトルの甘いコーヒー、そして、お煎餅やらお饅頭やら、おやつもたくさんいれて、生前よく身につけていた、マッサージ師としての仕事着も入れました。
葬儀屋の担当者の方が、「ちょっと待ってて」と言って、一つだけ、たばこの箱の口を開けて、父がたばこを取り出しやすいようにと、何本かだけ、ちょっとだけ頭を出して、マッチもつけやすいように添えてくれました。
日本人ならではのホスピタリティ、心遣いに触れ、改めて、日本の素晴らしさを実感し、「日本に生まれて良かった、日本人で良かった」と思った次第です。
ずっと父に会えず、父に触れられなかった想いが、納棺の儀式で癒され、わたしはとても満たされました。
コロナ禍の葬儀
コロナの問題は、大事な人との最期においても影響します。
わたしの実家は田舎で、都会からの親族の参列は受け入れられず、否応なしに表向きは「家族葬」となりました。
理由は、
「参列者がたくさん来られても困る」
「密になられては困る」
「コロナ発生防止は死守しなければならない」
という葬儀屋さんの意向が強いです。
ただし、それは同時に、遺族を守るということにもなります。
葬儀においても、密になる環境を避けなければならず、会食も一切無しで、通夜と告別式も簡略化され、遺族としては、「良かった」と思う部分と、「ちょっと寂しい」と思う部分と両方ありました。
また、父の兄弟も高齢であり、中には闘病中の人もいて、コロナ禍での葬儀は遠慮したいという人もいて、親族の参列も少なめでした。
それでも、父をよく知る古い知人などが時間をずらして、父に会いに来てくれ、涙してくれ、とてもありがたいと思った次第です。
泣かない遺族
わたしは子供の頃から、友達が亡くなっても、じいちゃん、ばあちゃんが亡くなっても、泣かない性質です。
なぜと聞かれてもわからないけど、兄もわたしと同じみたいで、泣かない、泣けないようで、「家系かなぁ」と、しみじみ思ったりしました。
父の亡骸を見ても、葬儀で参列客が泣いていても、イマイチ「死」というものがピンと来ないというか、たぶん、上手く感情として処理できないのではないかと思います。
不思議と、母も泣いてなかった。
母、兄、そしてわたし、遺族が誰ひとり泣いておらず、あっけらかんとしていて、その代わり参列者(母の友達など)が泣いているという、なんとも不思議な光景でした。
不思議と心は穏やかで、悲しい、寂しいという強い感情が沸き上がってこず、涙する気配が一向になかったわたし(とわたしの家族)だったのですが、わたしに限っては、1回だけ、自然と寂しさがこみ上げてくる場面があり、涙がちょっとだけ出ました。
悲しいというより、寂しいという感情。
それは、葬儀が終わって、葬儀屋のスタッフによって祭壇が片付け始めた時。
「お父さんも、片付けられちゃうの?」と感じてしまいました。
祭壇のろうそく、仏具、お花などが片付けられはじめ、父の棺に祭壇の花を敷き詰める時に、なんだかとっても寂しくなって、自然と涙がこぼれて、胸がちくっと痛かったです。
でも不思議と、出棺の際や、火葬場で焼けたばかりの父の遺骨を目の前にした時には、平常心に戻ってました。
肉体があるうちは、名残惜しいというか、一緒にいたいという気持ちが後を引くけど、いざ遺骨になると、自然と「そのまんま」を受け入れてました。
自宅に帰ってきた父
無事に葬儀が終わって、父の遺骨を胸に抱き、自宅に帰ってくると、不思議となんだか父が一緒にいる気がして、寂しさは消え、我が家は葬儀の晩だというのに、いつも通りにお笑い番組をみて、母も私も「あはは~♪」と大きな声で笑っているという、我ながらあっぱれな家系だなと思いました。
きっと、わたしの母も、心のどこかで、父がやっと自宅(といっても、父は住んだことがない新居ですが)に帰ってきて、一緒にいられるという安心感、そして、いつ亡くなるかわからないという恐怖と落着きのなさから解放され、ほっとしたのだと思います。
父が亡くなって「ほっとした」というと、変な話ですが、父自身も同じく、あの世でほっとしてるんじゃないかなと、思っています。
朝起きて、父の遺影を見ながらお線香をあげて、「お父さん、おはよー。お母さんを守ってね」と心の中でつぶやいて、その後は、いつもと変わらない、何気ない時間が過ぎていき、残された私たちは、こうやって、普通に生きていくのだなーと思いました。
母への想い
父が41歳で大病に倒れ、視力を失い身体障碍者となり、働き盛りのはずだった父は、10年間も、何もできず、ただただ自宅にいるだけでした。
さぞかし、無力感を感じたであろうと思います。
一方母は、中学と高校に上がったばかりの子供2人を育てながら、なんとか家計を切り盛りしなければならないという窮地に立たされ、急きょ大黒柱として仕事を2つ3つ掛け持ちしながら、必死に働き、家族を守ってきました。
父は倒れてから10年後、自分なりに生きる道を見つけ、ゼロベースで点字を覚え、3年間、単身寮生活にて国家資格を取得し、その後、自身の兄弟に数百万円借金し、マッサージ師とし、17年間もの間事業を営んできました。
父自身、天地がひっくり返るほどの人生の苦境に相当苦しんで、自分の生き方に苦悩し、血の滲む努力をし、なんとか自分なりに、一生懸命生きてきたのだと思います。
でも、一番大変だったのは、やはり母親で、仕事の傍ら子供を育て、義理の母親(ばあちゃん)と父の介護に35年間も費やし生きてきました。
相当の苦労だったと思います。
ものすごく大変だったはずなのに、いつも明るく元気で、逞しく一家を支えてきてくれました。
今年で75歳になる母。
父が逝ってくれたおかげで、残りの人生を自分のために生きられます。
経済的には決して裕福ではないけれど、残りの人生を、できるだけ自由に、そしてできる限り楽しい時間を過ごしてほしいなと思っています。
きっと、母のことだから、口ではひどいことを言っても、父をひっそりと偲び、しばらくの間は、なんだかんだ言って、寂しい思いをするかもしれません。
わたしは娘として、母にも父にも、あんまり大したことしてあげられなかったから、せめてこれからは、少しでも多くの時間を母と一緒に楽しい時間を過ごし、たくさん話をしたり、美味しいものを一緒に食べたりしたいなと思います。
父の死に面して
もしかしたら、父の死を実感するまで、もうしばらく時間がかかるのかもしれません。
もしかしたら、今のままずっと、父の死を実感できないまま、かもしれません。
いずれにしても、父とはたくさん楽しい時間を過ごし、美味しいものも一緒に食べて、たくさん思い出を作れたことは、わたしにとって大切な宝物です。
父にはもう会えないけれど、父と過ごした時間と記憶は、確実にわたしの中に生きていて、わたしの気持ちは満たされています。
だから、父には、感謝と温かい気持ちしかありません。
また、自分の肉体もいずれ無くなることを考えると、やはり、今を一生懸命生きなきゃと思います。
それでは、みなさま、人生いろいろですが、自分の生を全うできますよう。
Have a nice day
byちびまる