空飛ぶちびまる (自由気ままに)

おひとり様女子のエッセイ

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自由と暇の狭間で

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画像:photoAC photoBさん

 

自由とは何か

 

自由とは、

「他からの束縛を受けず、自分の思うままにふるまえること。」

 

他とは、

健康体であれば、自分以外のそれ以外という意味だと思いますが、きっと、一般的には人間関係が絡むものを指すのかなと思います。

 

「自由であれば、人は幸せなのか」という問いに関して、必ずしもイコールではなく、自由というのは、人が幸せになるひとつの要因に過ぎないのかなと。

 

自由とは、主に自身の身体的自由、精神的自由がありますが、例えどちらも自由であっても、人は必ずしも、自分の思うままにふるまえるとは限らないのかなと、最近、わたしの母と話をして、そう感じてます。

 

自由と暇の狭間で

 

父が他界した今、わたしの母は父の介護から解放され、時間的自由を得ました。

 

父が亡くなり、母は寂しがるかなと思いきや、涙の一つも見せません。

 

父がこの世を去る寂しさというより、きっと、介護の大変さのほうが上回っていたのでしょう。

 

きっと、多くの老夫婦がこんな感じなのではないでしょうか。

 

「やれやれ、やっと、逝ってくれた」

 

というのが本音なんだと思います。

 

ずっと母が夢見てきた、時間的自由。

 

父の介護から解放され、時間を気にせず、基本的に、朝から晩まで自由です。

 

経済的な縛りはあるにしろ、朝起きて、夜寝るまで、やりたいことをして過ごせます。

 

毎日、朝から晩まで仕事であくせく働く世の中の労働者にとっては、夢のような毎日。

 

好きなだけ寝ててもいいし、お昼ねだってしていいし、たーくさん、自由な時間があるのです。

 

でも人は、あまりにも自由過ぎると、逆に不自由さを感じるのかもしれないと、母と話をしていて、そう思いました。

 

要するに、自由という喜びを感じるよりも、暇という苦痛のほうが勝ってしまうと、有り余る時間と、どう向き合ったらよいかわからない、という状態に陥るということです。

 

やろうと思えば何でもできるのに

 

好奇心が旺盛で、あれもこれも、やりたいことが溢れんばかりにある人にとっては、きっと、夢のような人生でしょうが、これまで、家族のため、子供のため、夫のために生きてきた人にとっては、突然時間的自由を与えられても、完全にフリーズ状態、何をしたら良いか、ほんとにわからない、という状態に陥ってしまうリスクがあります。

 

わたしの母は、わたしに比べればずっと、多趣味なほうで、若い頃は、

 

〇レース編み

〇習字

〇ピアノ

〇卓球

〇ダンス

〇読書など

 

など、いろいろやってきてますが、年老いた今、なかなか今までやってきたことが、そのままできるかというと、そうでもない。

 

目が疲れる、体が疲れる、集中力が続かないなど、いろいろ身体的な問題があり、今までできたことが、なんとなく億劫になってしまって、やろうとも思えなくなる、という問題が生じます。

 

若ければ、やろうと思えば何でもできたはずなのに、75歳にもなると、やりたいと思うこと、実際にやれることは、結構限られてきます。

 

わたし自身はまだ40代ですが、少なからず、母の気持ちがわかります。

 

以前は貪るようにビジネス書など読み漁ったりしましたが、最近、活字を読むのがものすごく億劫になってしまって、よっぽど知りたい情報でなければ活字を読まない自分がいます。

 

人は年を重ねると、若い頃に当たり前にできていたことが、思いっきり面倒になる、というのは、わたしも少し気持ちがわかります。

 

やろうと思えば、お金を使わなくたって、できることはたくさんあるのに、それすら考えることがメンドクサイというのが現実。

 

人が老いていく分かれ目は、こういうことなんじゃないかなと思います。

 

面倒と思うか、知りたいと思うか、できるようになりたいと思うか、やってみたいと思うか。

 

面倒という心理状態は非常にやっかいだと思ってます。

 

人は、メンドクサイと思うことが増えれば増えるほど、その分、急速に老いていくような気がします。

 

せっかく与えられた命、与えられた時間を有意義に過ごしたいものです、

 

わたしの母も、今まさに、与えられた時間、自由という名の暇と闘っています。

 

何のために時間を使うのか

 

わたしは今まで、自分中心(自分軸)で生きてきて、今も現在進行形であり、しばらくは、このまま続くと思います。

 

でも、最近やっと、年を重ねて50を手前にして、父が他界し、老いた母を通して、未来の自分を想像することができるようになってきました。

 

わたしの母は、今まで一度も口にしなかった「ボランティア」という言葉を発するようになりました。

 

今までの人生は、余裕がなくて、他人のために何かをするなんて、考える余地もなかったようですが、子供が成人となり、配偶者も他界し、ある意味、母でも妻でもない、個人の感覚が強くなった今、「誰かの役に立ちたい」と思う気持ちが自然と出てきたのではないかと思います。

 

「ボランティアするんだったら、経済的に楽じゃないんだから、働いたほうが良くない?」とわたしは思ったりして、母にも言ってみたが、母曰く、「対価を頂いて働くと自由ではなくなる、それは嫌」らしい。

 

自分が赴くままに時間と労力を提供でき、自身のも手間ます暇を誰かのために費やせるなら、心が満たされるのではないかと考えているようです。

 

75歳の母の心境は、本当の意味で、わたしには理解できるわけがない。

 

でも、人間というのは、自由と暇のはざまで、どこか、自分の存在意義を周囲から認められたい生きものなのだろうかと、母との会話を通じて、そう感じています。

 

わたしはまだまだですが、50を手前にして、自分は何のために、誰のために働き、生きるのかと考えるようになり、コーチングの力を借りたりして、未だに、自分の気持ちと向き合い中です。

 

お金は、人間に安心を与え、ある一定の快楽は与えてくれますが、必ずしも幸せを与えてくれるものではなく、また、自由も、自身の中に何か明確な意志があり、その意志の先にある価値のためにやるべきことが見えてなければ、なかなか使いこなせるものではなく、人間は、自由という名の「暇」という状態に苦しんでしまうものなのだと、最近になって理解してきました。

 

自由と幸せ。

 

答えのない問いですが、感覚的に理解したいテーマです。

 

幸せって、人それぞれですが、どんな形であれ、自分なりの幸せを噛みしめて、時間を過ごしたいものです。

 

それでは、みなさま、have a nice day

 

by ちびまる