画像:photoACリズム727さん
空気を読み過ぎてしまう人の葛藤
自分をよく知る友人に「凪のお暇が再放送してるよ」と、そして「共感できると思うよ^^」とメッセージを頂いたので、凪のお暇、みてみました(まだ、半分ぐらいですが)。
あらすじは、周囲の空気をあまりにも読み過ぎて、その結果、自身のアイデンティティがわからなくなり、まるで水の中で溺れていくような苦しさを味わった主人公が、しがらみを一切合切何もかも捨てて、本来の素の自分と向き合っていく内容です。
わたしは、どちらかというと、空気が読めるタイプではななく、空気が読めないタイプなのですが、凪ちゃんが抱えた葛藤、、、わからなくもない。
目の前にいる相手に、
〇嫌われたくない
〇笑われたくない
〇がっかりされたくない
という気持ち。
人は誰しも、多かれ少なかれ、周りに認められたい、という気持ちがあります。
仲間外れや、ひとりぼっちになるのが怖い。
だからこそ、周囲と上手くやっていきたいと思うし、できることなら、自分らしく、素のままでいながら、周囲に溶け込みたいもの。
まわりから嫌われる、仲間外れにされる、ばかにされるのが怖いから、その場の空気を読んで(目の前にいる人の心を読んで)、自分の気持ちよりも、周囲に同調することを選んでしまいがち。
自分の気持ちをないがしろにし、周囲に同調することばかりを考えて生きていたら、自分をどこかに置いてきぼりにしてしまい、いずれ心が壊れてしまいますよね。
わたしって、いったいなんなのだろうと。
特別に何かに興味を持てない悩み
10代~20代の頃のわたしは、普通の人が興味を持つようなことに、「特別に興味を持つことができない」ことが悩みでした。
周囲から、「何が一番好き?」とか、「何をしたい?」とか、「どう思う?」と聞かれても、興味がないから何にも答えを持ち合わせておらず、そういった質問を受けるのは大変な苦痛であり、また恐怖でしかありませんでした。
興味がないから、何を聞かれても、大した反応ができず、話を盛り上げられない。
だから、学生時代は、みんなが集まっておしゃべりする、休み時間がとにかく苦痛でした。
3人以上で集まる場が苦手だったので、なるべく、そういう、ワイワイするような場所に居合わせないようにして思春期を過ごしてきました。
そして、自分でも周りから浮いていたことにも薄々気がついていたので、きっと、わたしの言動で、わたしの知らないところで(厳密には気がつかないところで)、ドン引きされていたことも多々あるのではと思います。
幸い、40代になったわたしは、さまざまな経験を通じて、多少、いろんなことに興味を持ったり、関心を寄せたりすることができるようになり、それなりの意見を持つようになりました。
意見や主張をするには、自分の頭で考えて「自分はどう思うのか、それはどういう根拠で?」という考えを持つ必要があり、幸い、わたしは長年の海外生活そして仕事を通じて、「自分で考える」という訓練を積むことができました。
なので、今は、何を質問されても、恐怖を覚えることはなく、わからないことは、素直にわからないと言えるようになりました。
とは言え、まだまだ社交的な3名以上集まるような場所は苦手なんですけど(;^ω^)
空気が読めない人の特徴
空気読める人 vs 空気読めない人の2択であれば、わたしは、間違いなく空気が読めないタイプ。
「空気が読めない人に共通する特徴」など他の方のブログを読んでみると、空気が読めない人の特徴として挙げられるのは、
〇周りが見えてない
〇自尊心が高く勘違い
〇他人に厳しい
〇口が軽い
〇自分を面白いと思っている
〇人の話を聞かない
〇気が利かない
〇時間にルーズor超厳しい
〇見栄っ張り
〇自分の常識を疑わない
などが挙げられるようですが、赤文字部分(7割)は、わたしに当てはまるので、わたしは、やっぱり、「空気を読めない人」なのでしょう。
明らかに空気読まないとまずいでしょうという場面、例えば、お葬式や結婚式。
空気を読むというより、明らかに厳かな雰囲気を感じられるシチュエーションであれば、さすがの鈍感なわたしでも、その場に馴染むよう粗相のないように気をつけることはできます。
でも、何気ない日常の中で、微妙な空気を読み、目の前にいる人の気持ちを察して(深読みして)、先回り行動で、周りに同調するという技をわたしは身についていません。
わたしは、周りの気持ちより、自分の気持ちを優先する傾向にあると思います。
「なるべく、失礼のないように」と心がけてはいるものの、時には、自身の意見をぶつけ過ぎて相手を不愉快にさせてしまったり、怒らせてしまったりもしばしば💦
わたしの場合、自分の感情と主張があまりにも全面に出過ぎてしまうので、バランスを崩してしまうと周囲に迷惑をかける結果になるので、そこらへんは成長しないといけないなぁ、と常々思っております。
日本特有の文化「空気を読む」
完全にわたしの独断と偏見ですが、海外生活(特に欧米文化での生活)が長かった日本人は、空気を読めないというより、空気を読まない、読む習慣がない人のほうが多いように思います。
わたし自身も30代半ばで長期の海外生活に突入することになり、空気を読まなければならない場面にあまり遭遇しないまま、10年以上を海外で過ごしてきました。
帰国してから10年になりますが、未だに空気を読むということに、あまり馴染めず、空気を読めるようになることに興味もない、というのが本音です。
空気を読むという文化は、もちろん欧米にも多少あるかと思いますが、日本ほどではないように思います。
「空気を読む」は、「日本特有の文化」のようにも思います。
欧米諸国は、個人主義(自分の人生がまずは大事)ですし、人種がごっちゃ混ぜだし、価値観はひとそれぞれ。
そういう社会の中では、「それぞれ違って当たり前」という考えがベースとなっており、違った価値観を持った人たちが同じ社会で生きていくためには、
「違うということをあらかじめ受入れ尊重」し、ある一定の距離感を保って大枠のルールに従って共存していくため、シンプルな言葉ではっきりと、自分の意思を伝えていくことは、お互いを理解し合う意味でも大切なことなのです。
何事も言葉で伝えるため、空気を読む必要はないのです。
相手に自分を理解してもらう。
そして、自分も相手を理解しようと努める。
それが、たとえ自分の人生の価値観上には存在しない常識がそこにあったとしても、「この人は、こういう価値観、世界観の中で活きているのだ。」と理解することが大事だったりします。
どうしても、生活スペースの中において、「あー、これはムリ」と思えば、自分がその場を去り、自分に適した生活スペース(社会)を探し、その中に身を置いて生きていく選択をすればよいのです。
価値観や生き方が雑多な国際環境の中においては、違って当たり前という前提があるので、ある意味わたしには、多種多様な人種が入り交ざる社会は心地が良かったとも言えます。
「わたしは、こうなんだ」と主張したとしても、周りから浮くことはなく、イメージでいうと、たくさんの色の色鉛筆の中で、私だけが赤色でも、まわりも違う色だから目立たない。
それぞれ青だったり、緑だったり、黄色だったり、全部違う色なので、自分だけが目立つこともなく、その場所に居ることに違和感を覚えることなく、しっくりおさまります。
だけど、日本の場合、9割が白で、自分だけが違う色だったとしたら、よい意味でも悪い意味でも目立ちます。
その点においては、日本の社会で生きることは、少々窮屈に思うことがあります。
日本の文化には「察する」ということ、「言わなくてもわかるだろう」など、言葉にしなくても伝える美学があり、それは、日本人特有の能力の高さでもあると思います。
わたしも一応日本人なので、本来そういった能力を持ち合わせているはずなのですが、どういう訳かその能力は大きく欠落し、あまり育成されることがないまま、大人になってしまいました。
空気を読むより話をしよう
わたしは、きっと、これからも、空気を読んで生きていったりはしないと思います。
わたしのことだから、きっと、この先も、あまり社交的な場を好まず、数は少ない自分を受け入れてくれる人たちの愛情と優しさに包まれながら、そして、そのまわりの優しさに感謝しながら、素のままで生きていくのだと思います。
ほっこりした空間など、その場の空間の雰囲気を味わうことは大好きだけど、わかりようのない他人の心を深読みして、あれこれ考えるのは無意味さを感じてしまいます。
空気を読むのではなく、言葉で相手にたずねよう。
そして、自分の意思も伝えよう。
そこにお互いが、相手を思いやる心と、相手を尊重する気持ちさえあれば、きっと、空気なんて読まなくても、分かり合えることがたくさんあるはずだし、何より言葉で伝えるほうがシンプルでわかりやすい。
仮に言葉で言い合って意見が衝突して、ケンカしたとしても、お互い認めあえる部分が少しでもあれば、きっと、どこかで歩み寄って、なんとか一緒に前に進めるはず。
そして、本音で言い合えない相手とは、極力付き合いたくないので、付き合わない。
嬉しいことも、楽しいことも、辛いことも、厳しいことも、悲しいことも、なんでも伝えてくれる友人をわたしは大事にしたいし、自分の時間を使っていきたい。
猫ちゃんのように、好きな人がいる場所や、居心地の良い場所を探して、自分が心地よい場所を見つけて生きていけたら幸せだなぁ、と思う今日この頃です。
そんなわけで、空気が読めないわたしですが、そんなわたしと付き合ってくれる友人に感謝しつつ、今日も一日楽しく生きよう。
自粛生活が続く毎日ですが、みなさま、have a nice day
byちびまる