異業種での仕事経験が繋がっている今
スペシャリストにはならなかった(なれなかった?)わたしは、たくさんの業界を渡り歩いてきて、バイトも含めれば、結構たくさんの種類の仕事を経験してきました。
転職も多すぎて、履歴書をアップデートするだけでも大変。
自分でも、いつ、どこで、何をしてたなんて、正確には覚えていないほど。
世間では、転職歴が多いのは、どちらかというとマイナスなイメージだし、履歴書だけで、切り捨てられるのも事実。
わたしの履歴書(経歴そのものも含めて)なんて、なんの一貫性もなくて、採用する側にとっては、「この人はいったい何がしたいんだろう?あなたの強みはいったい何なの?」と、呆れられ、頭を傾げられるような内容です。
実際に、大手企業も転職歴が多い人材は好まないし、また、転職しているにしても、1つの道で技術やスキルを磨いてきている人材、要するにスペシャリストを断然好みます。
たぶん、そのほうが採用する側としても安心だろうし、まっとうに生きているように見えるのでしょうね。
だから、わたしのような転職歴がえらい多い人材は、いわゆるグローバル大手企業などには、あんまり欲しがられませんし、自分でも、Job Description (職務内容)がきっかり決められていて、あっちこっち自由に仕事ができない職場環境には、上手くフィットできないと思っています。
まぁ、要するに、エリート路線の高級な電車には、どうあがいたとしても乗れないということです。
イメージ的には、わたしのキャリア路線は自分で漕ぐ船旅のようなものです。
それも、小回りがきく、小さないかだみたいなもの。
でも、だからといって、わたし自身が自分の意志で選んできた道に、まったく後悔もしていないし、卑下するつもりもありません。
逆に、とても良い経験を、いろんなところでさせてもらったことに感謝しているぐらいです。
今働かせてもらっている会社とも、もともと、わたしのキャリアからは何の縁もゆかりも、関連性もない業界なんですが、それなりに、わたしという人間を活かしてもらっているのでありがたいなーと思いながら働いています。
何ごとも経験だと思って、今この時を、わたしは生きています。
バライエティなわたしの職歴
わたしが、はじめて、自分でお金を稼ぐことを経験したのは、中学1年生の頃。
父が病に倒れて、食べていくだけで大変という感じだったから、お小遣いなんてもらえる状況じゃなかったので、中一の頃から、自分のお金は自分で稼ぐということを覚えました。
新聞配達
わたしの一番初めのお仕事は新聞配達。
なんとなく、昭和な感じでしょ^^
毎朝、4時起きで新聞屋さんにチャリンコで20分かけて出かけて、そこから1時間ほどかけて新聞配達。
毎日飽きもせず、雨の日も、風の日も、雪の日も、どんなに寒くったって、朝4時に起きて、チャリンコこいで、新聞屋さんにいって、自分が担当する部数の新聞を準備して、まだ、暗い夜道を自転車で新聞配達。
今思えば、一日も休まなかったので、からだが丈夫な子どもだったんだなーと思います。
スマホなんて、もちろんない時代。
方向音痴ゆえ、記憶力があんまりよくないわたしは、配達する家を覚えるのに、大変苦労しました。
どこかのおうちでお葬式があったりなんかすると、早朝の薄暗い中、葬式用の大きな花飾りがなんとなく不気味で怖くて、その家の前をめっちゃ高速でチャリンコをこいで、走り抜けたのを覚えています。
また、ある時には、どこかの家から、お経を読み上げるような声がしてきて、お化けがでそうで、めっちゃ怖かったのを覚えています。
真っ暗な中に、お経を読み上げる声が聞こえてくるんですよ、そりゃ怖いでしょ。
また、ある時は、玄関の門を開けた瞬間、わたしより背丈がずっと大きな犬が、わたしにじゃれてきて、大きな舌で顔を舐めれられ、顔がびっちょびちょ、きゃ~っ!っていう感じ。
2年ぐらい、毎日、やったかな、新聞配達。
稼ぐって言っても、一か月1万円ぐらいだったと思います。
お金を稼ぐって大変だなぁと、中学生ながらに思ったものです。
コンビニでのバイト
高校に入って、新聞配達より、もっと稼げるコンビニのバイトをやりました。
ちょっと、大人になった気分でした^^
当時は、高校生のバイトは禁止されていて、母と一緒に学校に説明にいって、特別に許可をもらってやってました。
朝5時半に起きて6時から7時半までの1時間半。
今思うと毎朝辛い思いをする割には、割に合わないバイトでしたが、コンビニのバイトを通じて、仕事というのを覚えました。
当時、わたしは、チビなくせに、背丈が必要なバスケ部に所属していて、朝練、昼練、夜練と、とにかく部活で忙しい毎日。
それも、意外とスパルタ!!!
とにかく、走らされましたし、連帯責任的な練習の仕方でしたので、球技が下手くそなわたしは、先輩からのプレッシャーなども受けながら、地獄の5メン(5人でパスしながらコートを往復し、シュートを2回するやつ)などやりながら、ヘロヘロになりながら練習していました。
この5メンってのは、往復回数(タスク)がどんどん増えて行って、1回でも誰かがシュートを外せば、最初からカウントしなおしという、恐ろしくプレッシャーがかかる練習でした。
少なくともわたしにとっては。
わたしは、どんなに練習しても万年補欠で、ベンチで応援するのが常。
今となっては、球技も下手くそで、チビなわたしがなぜバスケ部に入ったのかと、それも完全に補欠なのに、なんで3年間も辞めずに、めげずにやり通したのか、自分の行動が今でも謎です。
たぶん、「これが青春♬」みたいな、酔いしれた自分がいたのでしょう。
今思えば、自分をまったく活かせない選択だったなぁと思いますが、体も精神も鍛えられたことは間違いないので、無駄ではなかったと思っています。
ちょっと、脱線しましたが、バイトの話しへ。
学生だから、期末試験だのなんだのって、ルーチンでやってくる試験勉強もやらなきゃならず、万年睡眠不足という状態。
授業中のほとんどは、睡眠時間を補う時間。
教科書を壁や机に重ねて、よだれが垂れないようにタオルもしいて、ひたすら寝てました。
朝5半に自宅を出て、帰ってくるのは夜8~9時頃。
今の生活より忙しくて、体もきつかったんじゃないかな。
こたつで、ちょっとした時間をごろ寝するのが至福の楽しみ、という高校生でした。
コンビニでのバイト経験は、いろんな意味で今に役立っています。
仕事の基本を学んだのがコンビニでのバイトだったと思います。
コンビニのバイトの仕事は、バライエティ。
品出し、検品、発注、お掃除、レジのお金数え、おでん作り、フランクフルトを焼いたり、宅急便の受付したり、、、結構な業務量です。
今でも覚えてますが、間違えて、耳かきを大量発注して店長に叱られました。
耳かきなんて、まずそんなに売れないでしょ。
どういうわけか、100個以上の耳かきを発注出しちゃって、完全に不良在庫ですよ。
また今では、許されないと思いますが、当時は、有効期限ギリギリ、もしくは期限が切れたばっかりのお弁当やおにぎりなどが、バイトの子は裏の控室で食べることができました。
当時、家にもお金がなくて、おやつと言えば食パンぐらい。
それも8枚切りの薄いやつ。
自分で稼いだお金のほとんどは、部活の遠征やバスケットシューズ代などに消えていたので、食べ物を無料でもらえて、それもコンビニの美味しい食べ物が頂けるなんて天国と思いながら、食べ盛りのわたしは、そのご厚意に甘えたのでした。
コンビニでのバイトは、4年ぐらいやりました。
ほぼ、毎日だったので、地味にしんどかったです^^;
旅行代理店での営業
特に、将来に夢を持つということができなかったわたしは、当時、さんまさんと大竹しのぶさんの「男女7人夏物語」という恋愛ドラマが大好きで、主人公が旅行関係の仕事をしていたことから、旅行の専門学校に1年行かせてもらいました。
母親にダダをこねて、母の老後の年金を解約してまで、学費を工面して専門学校に行かせてもらったのに、わたしは3年ちょっとで旅行会社を辞めちゃったのです。
なんという親不孝。
迷惑かけた分、年老いた母に、楽しいことをプレゼントして、ちょっとずつ母に恩返し中。
国内旅行主任者資格っていう国家資格をとって、地元の旅行代理店に勤めました。
お金がないってこともありましたが、家族で旅行なんて、ほとんど経験がないわたし。
そんなわたしが、旅行代理店でのカウンター営業。
お客さんが行きたい旅行先なんて、もちろん、行ったこともないですし、地名や観光地なんて国家資格の教科書で覚えたぐらいです。
当時は、まだインターネットが普及してなかった時代ですから、「どんなところ?」と確認するには、ペーパーベースのパンフレットやガイドブックぐらい。
一番困ったのが海外旅行のパッケージ販売。
新婚旅行で、ハワイやヨーロッパが人気でした。
お客さんは、当然、わたしを「もちろん、行ったことあるんだよね?」という目で見ますし、そして、海外なんて行ったことがないわたしがわかりようもない、現地情報を聞いてくるわけです。
嘘がつけないわたしには、苦痛で仕方ありませんでした。
お客さんに嘘をついてまで、物売りするのが嫌で仕事を辞めました。
仕事はやめちゃったのですが、旅行会社での仕事経験は、プライベートでの旅行や、海外出張の手配などに、大きく役立っています。
英会話教室での営業
わたしと同じ世代なら、きっと思い出すフレーズ、You droped a handkerchief. 「ハンカチを落としましたよ!」という某英会話スクール。
当時、外国人の先生から英会話を学ぶというのは、わたしにとってはセンセーショナルなサービスで、いつしかわたしは、英語ペラペラに憧れ、英会話教室での仕事をはじめました。
英会話教室で働けば、自然に、英語ペラペラになれると信じてましたが、まったくなれませんでした。
当たり前ですが、わたしの仕事は日本人のお客様向けの営業なので、英語を話す機会なんてほとんどありません。
また、英会話教室の先生は、日本語をしゃべりたい、学びたい人が多いので、日本語で話しかけてきます。
英語を覚えるはずがないですよね。
英語どころか、上司とウマが合わなくて、毎日、何をするにも叱られてばかり。
かわいがってもらったんですが、可愛がり方が間違えてたというか、わたしの取説を完全に間違っちゃって、がんじがらめな指導でした。
あんまり、何に対しても興味や関心を持てなかったわたしにとって、営業ロールプレイは地獄の特訓。
会話の中での相槌が、どうも中途半端だったようで、なんで、相手の話しに興味が持てないの?と責められっぱなし。
なんでって、聞かれても・・・と、いつも思ってました。
今になって理解していることですが、興味がなさそうに見えてしまうのは、わたしのネイチャー(自然に持っている性質)であり、どうしようもないんですよね。
そんなんだったら、もういい!帰れーっ!って、怒鳴られて、自宅に帰って、ひとり、泣きながら、ぬいぐるみを並べてプレゼンの練習をしたものです。
咳払いひとつするにも注意されそうな勢いで、1から10まで管理したいタイプの上司でしたので、とても窮屈な時間を過ごしていたのですが、ある日突然、放牧タイプの上司にかわり、わたしの毎日はバラ色になりました。
ここでも、ずいぶん、精神的にも体力的にも鍛えられましたし、コミュニケーションのイロハを教えて頂きました。
何より、自分は放牧タイプの上司じゃないと、のびのび仕事ができないタイプということを知れただけでも収穫です。
ちなみに、今の上司は、完全に放牧タイプ。
わたしを放牧し過ぎて、わたしは草を食べずに、海外にでずっぱりな放浪状態。
でも、これがありがたいんです。
力を発揮しやすいです^^
日本食レストラン(海外)でウエイトレス
英語もしゃべれない、パソコンもできない、特別なんのとりえも、スキルもなかったわたしは、海外生活をスタートしたころには、働き口なんてありませんでした。
どこに行っても門前払い。
ぜんぜん、相手にしてもらえませんでした。
日本食レストランでのウエイトレスは、いつも不足してましたら、ワーキングホリデービザでも働くことができました。
この時に、英会話を、ちょびっと覚え始めました。
わたしにとっては、英会話も大変でしたが、何より、英語うんうんよりも、ウエイトレスとしての仕事のほうが大変でした。
というのも、日本食レストランには、寿司カウンターがあり、カウンターのガラスのケースには、魚の切り身がずらりとならんでいて、1匹の魚の姿をみても、何の魚か覚えられないのに、切り身になってしまったら、さっぱりわからず・・・。
赤身と白身の魚、ぐらいしか見分けがつかず、絶対これならわかるというのが、マグロとサーモンぐらいでした。
外国人のお客様にお料理を出すたびに、「これ何の魚?」って聞かれて、その度に、少々お待ちくださいと厨房に戻って聞くという、なんとも出来の悪いウエイトレス。
わたしを悩ませたのは、魚の切り身だけでなく、重量のある鍋焼きうどんセット。
めっちゃ重いんです、鍋焼きうどんセット。
なんてったって、鉄の鍋と、うどんの器に、あっつあっつの具が入っているんですから、そりゃ重いです。
ランチの時間なんて激混みで、レストラン会場は所狭しと椅子とテーブルが並べられており、椅子と椅子の間は、ちょっと太っちょになった日には、通れないほどの狭さ。
狭い椅子と椅子の間を、両手に重たい鍋焼きうどんセットを2つ持って、それを客の頭上に持ち上げて運ぶという、わたしにとっては難易度高いってもんじゃなかったです。
あやまって、お盆をひっくり返したら大惨事です。
最初は2つのお盆を持てなくて、フロアマネジャーからは、「はやく2つ持てるようになってね、そうじゃなきゃ、まわらないんだから。」とプレッシャーをかけられ、バイトながらに厳しい世界だなぁ・・・と思いながら仕事してました。
ここでは、多品目のメニューを覚えて、超忙しいフロアで効率良く、ちゃっちゃと動かなければならなかったので、そういったスキルが見につきました。
英会話じゃなくて、そういった、ちゃっちゃと動くスキルがね。
大手コーポレート銀行で企画・総務
わたしの英語力が磨かれたのは、海外での銀行勤務時代。
また、パソコンのスキルを身につけたのも、この時代。
ほんと、当時のわたしは、猫の手にもおよばないできない子でしたので、よく大手の銀行さんが、見捨てずに7年間も雇ってくれたなぁ、、、と思います。
海外の銀行で働いた7年間、わたしは、この期間に英語とパソコン以外にも、たくさんのことを吸収しました。
上司に誘われて、一流ホテルのラウンジで、1杯20AUDもするフローズンダイキリを優雅に飲むことや、クリスマスパーティで、サンタになってみんなを笑わせることや、そして、マルチカルチャーな環境で、多国籍の人たちと一緒に働いて、アフターワークに飲みに行ったりだとか、仕事以外でも、たくさんの経験をさせてもらいました。
今の私の、仕事の仕方のベースを作ったのは、この7年間の銀行勤務時代です。
とは言え、銀行業務には、ほとんど関わってなかったので、銀行業務については、ぜんぜんわからないのですが。
わたしは、企画課と総務課で働いたので、災害プランの策定から、事業計画書の作成、社長のプレゼンテーション資料の作成、代表電話のスイッチボードの操作と受付、フライデードリンクの段取り、通常経費の支払い、社長秘書的な仕事から、海外出張の段取り、重要書類の管理など、バースディケーキやレセプションの花の買い出しなど、とにかく、雑務とは言え、かなりバライエティになんでも、頼まれた仕事をしました。
わたしには、こういった、スペシャルな知識など一切必要ないマルチタスクな仕事が性に合っているんだと思います。
銀行業務は一切しなかったけど、あれこれ段取りするのは楽しかったです^^
アロマセラピストとして事業を営む
本屋でパラパラとみたアロマの本から、アロマセラピストって、なんだか神秘的な響き♬と思って志して、めでたくアロマラピスとになってオーストラリアで開業。
個人事業主としての開業でしたが、ビジネスを自分でやってみるというのは、全部ゼロベースで考えなくちゃならないので大変な分、とってもやりがいもあり、たくさんのことを学びましたし、楽しい時間を過ごしました。
人様からお金を頂くというのは、どんなお仕事でも大変なことです。
でも、自分の考えをもって、自分自身で、自由にビジネス名を考えたり、ホームページや名刺を作ってみたり、広告を出してみたり、サービスメニューを考えたり、やりたいようにサービスを提供してみたり、税申告してみたり、セミナーを開催してみたりと、何かをゼロから創造する過程というのは、とっても楽しいものです。
ビジネスとしては、ぜんぜん発射しないロケットみたいなものでしたけど、わたし個人の経験としては、かけがえのない宝物です。
よくよく考えてみると、個々人の好みに合わせて精油を調合した香りのオイルを使って、初めて出会った人のカラダに直にボディタッチして、マッサージをするというのは、なかなかできない経験であり、特別な時間だったなと思います。
自分の目の前にほぼ全裸(パンツだけ、もちろんバスタオルで覆ってますが)で寝っ転がっていて、その人の呼吸に合わせてマッサージを施すというのは、不思議な感覚です。
だいたい60~90分、長い時で120分の時間を過ごしていたのですが、中にはかなり深い眠りに落ちてしまって、いびきをかいて寝ていて、起きてこないお客様などがいると、「ここまでリラックスしてくれるなんて、本望だわぁ~」と思ったものです。
アロマセラピストとしての事業運営の経験は、今のわたしのビジネスに対する興味につながっています。
現地のIT系の会社で働く
銀行を辞めて、アロマの仕事と二束の草鞋で仕事したのが、現地のIT系の会社。
銀行での仕事は、収入も安定していたし、人も良かったし、組織も待遇もそれなりに快適でした。
7年お世話になって、ついにXデーがやってきました。
わたしは、完全に飽きてしまいました。
ルーチンの仕事に。
そんなわけで、怖がりだけど冒険したかったわたしは、清水寺から飛び降りる勢いで会社を辞めて、現地の会社で、もっと自由がきいて、英語も上達しそうな環境に飛び込みました。
株式市場のセキュリティシステムを開発する会社で、英国色が強いベンチャー企業で、日本人ゼロ、ほとんどが20代前半のITボーイ。
Office Admin総務全般 & 社長・役員秘書 PAのポジションにて仕事をしました。
そこでの経験は、いろんな意味でショックを受けましたし、現地日系企業の環境とは、まったく違って、全てにおいて斬新でした。
経験したことないことって、人は想像できないもんなのですね。
お偉い人たちから頼まれることが、いろいろあったのですが、わたしの想像をはるかに超える要求が多くて、コミュニケーションが上手くいかず、途中でドロップアウト。
タイミングを見計らって、逃げました。
不動産会社の立上げ
ビジネスに興味があったわたしは、「ビジネス立上げスタッフ募集」という広告を偶然にフリーペーパーで目にして、その場で即効電話して、面接のアポイントを取りました。
海外在住歴が長かったのと、そこそこ英語ができたこと、そして自分自身でもアロマセラピーのサロン運営の経験があったことなどが功を成し、即日採用となりました。
自分の雇用契約書を英文で作って、先方の社長と契約条件を交渉して、それからは、オフィス探し、オフィスの家具探し、オフィス賃貸契約もろもろ、サービス内容の考案から、具現化、ホームページの構築から駐在員のおうち探しと物件案内、現地不動産との交渉や折衝など、自分にできることは何でもやりました。
立上げから2年、解雇通知は突然に。
クビになりました。
海外でよくある、ポジションクローズです。
ポジションクローズとは、自分が雇用契約にサインをしたポジションが要らなくなったということです。
あなたはもう要りませんと宣告されるんです、突然。
人生で初めての経験でしたし、用無しと言われることは、人間にとっては、本当に寂しいものです。
大きく落ち込みましたし、傷つきました。
今でも、その時の気持ちと胸の痛みは今でも忘れてないので、そういった立場に立たされた人の気持ちは、少なからず、わかっているつもりです。
とても辛い経験でしたが、その経験をしておいて良かったと今は思います。
だって、そういう気持ちは、実際に直面した人にしかわからないし、なかなか感じることのできな痛みも知ることができましたから。
不動産会社のビジネス立上げ2年間の経験は、今のわたしにちゃんとつながっています。
お役所組織でのお仕事
次の仕事までのつなぎで、3ヶ月ほど日本政府の独立行政法人で派遣のお仕事をしました。
独立行政法人というのは、民間の企業とはまったく違う、独特の雰囲気です。
オフィスは一等地の高層ビルの高層階にあり、とんでもなく贅沢な場所でのお仕事。
3ヶ月だけでしたが、わたしは、オフィスからの眺めを楽しみに、毎日オフィスに通っていたものです。
そこでのお仕事は、企業調査のお仕事でした。
アンケートをお願いするのに、電話をかけまくる仕事です。
3ヶ月だから続いたようなもので、業務的には退屈でした。
わたしはやっぱり、世の中が必要としている物やサービスを提供し、その価値を対価で計るという仕事のほうが面白いです。
世間というのは正直そのもので、必要としないものには対価を払わない。
逆に、必要なもの、もしくは欲を満たすものであれば、どんなに高価なものでも対価を支払う。
こういった人間の心模様が面白いのです。
ライフバイオサイエンスの世界へ
自分で望んでいたわけではないのですが、ひょんなことからご縁があって、ライフバイオサイエンスの世界にお邪魔してます。
不動産会社をクビになって、お役所でバイトをしているわたしにリクルートエージェントから声がかかり、出会って雇われた会社が、今わたしが勤めている会社です。
あれよあれよという間に、本社勤務のため帰国となり、オーストラリアの永住権を捨てることになりました。
ライフバイオサイエンス業界に入ってきて、早10年目です。
時が経つのは早いものですね。
今の会社に入ってからも、スポーツ飲料水の開発から事業開拓を担当したり、ライフバイオサイエンスの国内営業を担当したり、内勤の完全ルーチン作業、営業事務を経験したりと、今の会社でも私の仕事はバライエティ。
今では、海外事業担当していますが、事業部を超えて、海外市場や外国企業が絡むことなら、なんでもやります。
あらゆる契約書の作成からレビュー、交渉から折衝、事業分析もしますし、Eマーケティングにも足を突っ込みながら、ホームページを営業ツールに作りかえてみたり、海外市場の現場にも出かけて、パートナー企業の社長や営業との関係作り、そしてさまざまな研究機関や企業の研究員の人とも一緒に仕事をしています。
あっちこっちと足をつっこんでいるので、正直言って、全てにおいて、わたしの知識はめっちゃ浅いです。
なので、必要な知識については、まわりのスペシャリストの頭を使わせてもらって、小学生でもわかるように、要点だけを教えてもらいながら、海外担当としての仕事をしています。
いろいろな業種・業態や組織で、仕事をしてきたからこそ、養われた感性や感覚もあると思っています。
スペシャリストになれなくても、マルチタスクをこなすことで認めてくれる人たちもいます。
バライエティに、業界の経験がなくても、マルチタスクをこなせる能力は、わたしが人生を通して培ってきた経験がベースになっていて、それが、自己満足と言われようと、他人から転職歴をどう見られようと、それは私の財産です。
わたしと同じように、転職を繰り返してきて、仕事探しをしても、なかなかどこからも声がかからないと、悩んでいる人へ。
だいじょうぶ、一生懸命、前向きに生きて入れば、きっと、良き出会いに巡り合えるから、どうぞ安心して、今目の前にあることを、楽しんでください♬
辛かったら逃げても、愚痴っても、落ち込んでもいい、自分自身を諦めない限り。
めげない、投げ出さない、諦めない、これが大事~♬
今日も一日素敵な日でありますように^^
byちびまる