画像:photoACRate1003さん
禅(ZEN)の思想に学ぶ
禅とは何か。
いろいろ調べてみると、これといった解はなく、キーワードは「無」。
わたし自身、これまで座禅をやったこともないし、今まで特別に興味を示したこともないのですが、「自身の生き方」を考えたときに、わたしが支持している思想って、どこか結びつくような教えや宗派ってあるのだろうかと、なんとなく思っていたところがありました。
多くの人は、それぞれ信じる神や神の教えを生きていく支えや指針となるものとしていて、わたしのまわりにも、カソリック教徒、イスラム教徒、仏教徒、プロテスタントなどおりますが、わたし自身、特別にこれといって信仰している宗派はありません。
シドニーで生活していた頃、警察の要請で裁判所に証人として出頭を命じられたことがあって、宣誓する際に、「あなたは神を信じますか」と裁判官に聞かれ、「いいえ、信じていません」と正直に回答したところ、裁判の会場がどよめいたのを思い出します(;^ω^)
そんなわたしなのですが、先日、何気なくググっていた際に、下記のサイトを見つけて、「おぉぉーーーっ!、わたしが支持する生き方は禅(ZEN)の思想に似ている!!!」と大きな発見をしたわけです。
禅(ZEN)を深く学んだわけでもなく、ただ単に下記のサイトに共感しただけではあるのですが、わたしが心地よく感じていた生き方は、こういうことだったのだと改めて実感させられました。
本来の自分に立ち返る
禅とは信仰ではなく修行。
本来の自分を見つめる修行。
そのために無になる必要があり、無になるための修行が座禅。
なるほど。
本来の自分。
「自分でも本来の自分って、どんなだろう?」と、わからないですが、無になる修行をすることで何か感じられるものがあるのかもしれませんね。
今が大切。日々の暮らしを丁寧に。
“今ここにいる自分”に意識を向けて、日々の所作を丁寧に行う。”
”目の前のことに集中する”
引用元:キナリノ:きっと心が軽くなるよ♪“禅(ZEN)”の思想から学ぶ「シンプルな生き方」
わたしにとって、過去や未来よりも、今が一番大切。
今この時の自分が考えてること、感じていることを大切にして、自分に与えられた時間という資源を大切に使っていきたいと考えています。
今この時を、自分の意思で自分で責任を持って物事を決めて、すべての選択を自分で行っていくことで、仮にその選択により嫌なことが起きたとしても、その事象を受け入れ向き合うことができるし、悔やむこともない。
今自分が持っている精一杯の力を総動員して考えて、決めたことであれば、後悔はしない。
自分に集中する
便利なネット社会で生きる私たちは、常に情報の渦にさらされます。
ネット上では、誰しもが、いろんなことをそれぞれ発言する自由があり、その人々の言葉は、時に人を励まし勇気を与え、時には人を苦しめ悲してしまうこともあります。
わたしも匿名にて本ブログで、自分が思ったこと、感じたことを文字にして発信しているわけなのですが、基本的にわたしは「自分」を軸にした発信をするように心がけています。
「あの人が」ではなく、
〇自分はどう思うのか
〇自分は何を選ぶのか
〇自分はどう生きるのか
と、全て自分を軸にして、自分自身の言動について考え発信することは、あくまで主語が「わたし」なので、どこかの誰かの生き方をどうこう言うことはありません。
だって、唯一自分だけが、自分の意思で変えられるわけで、また、他の誰かの言動について、わたしが何か変えることはできないのだから。
だけれども、一般的に、ひとというものは、相対的に物事を考えてしまう傾向があり、周りよりも優位に立ちたいという欲求が少なからずあるもの。
わたしも例外なく・・・
だから、他の誰かと比べて、わたしは・・・
〇上手くできているのか
〇輝いているのか
〇認められているのか
など、考えても仕方のないことを考えてしまって、一喜一憂してしまう。
憧れの人を対象にして、「あんな風にわたしもなりたい」と夢を描き、日々試行錯誤し努力をするのは良いけれど、なかなか思うような結果が出なくて、自分を卑下してしまうことはナンセンス。
思うように結果が出ないというのは、苦しいもの。
だけど、自身の日々の努力に集中して、昨日の自分よりも、ちょっとでも前進しているかどうかに集中すると、心は穏やかでいられるのではと思います。
禅から学ぶ習慣
早起きして掃除する
最近、平日は朝温泉に入りたいという欲求を味方につけて、5:50に起床するように心がけています。
どうも朝が弱く、シャキッとなかなか起きられず、ぐずぐずしてしまうわたしなのですが、なんとか、朝風呂の気持ちよさを求めて起床しています(;^ω^)
お掃除は、基本的に
〇ものをあまり持たない
〇食べたらすぐ片付ける
〇ベッドメイキングは必ず毎朝する
〇気になるところはすぐ掃除
することで、それほど部屋が散らからないので、週1回週末にするぐらいです。
不要なものを手放す
あまり物持ちではないわたしなのですが、それでも、なんだかんだと、物は増えていきます。
困ってしまうのがプレゼントでいただいたもの。
以前、わたしの乳がん騒動があった際に、母が心配して!?どういうわけか、大きなぬいぐるみ(スヌーピーの兄弟オラフ)を送ってきて、頭が大きなオラフは、わたしのベッドサイドに。。。
「実質的には、必要なものではない」のですが、母の気持ちを考えると、処分するわけにもいかず、そのまま我が家におるわけなのです。
まだ使えるものを処分することに抵抗はありますし、かといって、こまごまとしたものをフリマで売るというのも結構な労力がかかります。
なので、なるべく、不要なものを自分では買わない、ものを増やさないようにしています。
必要ない情報には触れない
ビジネス上は、なるべく多くの情報収集をして、必要な情報を取捨選択し、仕事に役立てていくものなのでしょうが、ネット社会の現代では、フェイク情報も含めて、膨大な情報が日々渦巻いています。
常に頭の中をシンプルに、不要な情報により、不要な葛藤や心配など、心を病んでしまわないような工夫は必要かと。
わたし幸運なことに、あまり情報が頭の中に入らないのと、また、あまり他人に興味がない=ゴシップや噂も興味なし、そして新しもの好きではないため、自らさまざまな情報を探しに行くというのは稀です。
そして、SNSも唯一Facebookをやっていましたが、先日やめてしまったので、SNSによるストレスもなく、また、本ブログのTwitterもブログ記事をシェアするぐらいでフォローはまったくしていないので、ほぼゼロ関与。
世の中の動きに大きく乗り遅れた感があるのですが、どうもあまり興味が持てず、また、そもそも煩わしく感じてしまうところがあったので、仕事上のSNS - LinkedIn以外は今後も使う予定はありません。
必要ない情報に触れないというのは、自身の機会を狭めてしまう可能性もありますが、心の安らぎと情報を得ることでの機会を天秤にかけて、バランスを取っていくことが大事かもしれません。
禅のことば
喜捨(きしゃ)
喜捨(きしゃ)は「曇りのない心」という意味なのだそうです。
もともと人は、おぎゃっと生まれた時は無垢であり、1点の曇りもない心を持っているはずだけれども、社会でさまざまな経験を積んでいくうちに、さまざまな感情や思いが生まれ、心が揺れてしまうこともしばしば。
喜怒哀楽は人間が持っている美しい一面でもあると思うので、日々、喜怒哀楽に振り回される人生も悪くはないと思いますが、一日の少しの時間だけでも、「しんと静まり返った凛とした無の心」を持てると良いなと思います。
把手共行(はしゅきょうこう)
「手を取り合って、共に行く」
「手に手を取って同じ志を持ち、同じ思いを抱いて歩む」 という意味のようです。
ひとは、ひとりでは生きられません。
自分にとって、大切な誰かと、手を取り合って、共に生きていくことは、豊かな人生を送るにあたり、大切な要素であると思います。
わたし自身は、あまり社会活動に参加するほうではないので、どちらかというと人間関係は希薄なほうなのですが、仕事を通じた仲間とは、同じ志を持って、共に生きている感はあるように思います。
随所快活(ずいしょかいかつ)
素直で自然な心で。
いかなる状況でも、自分らしく自然体でいること。
知らず知らずに、見栄を張って、自分自身以上に大きな自分を見せたがっていないだろうか。
30代のわたしは、まわりによく言われてました。
「等身大の自分でね」と。
ということは、周りからみたわたしは、見栄をバリバリ張っていて、それが見え見えで、バレバレだったということ。
40代のわたしも、それほど変わってないかもしれませんが、30代の頃よりは、もう少しだけ、自分を受け入れられるようになったのではと感じています。
ある種、諦めた感も否めませんが(;^ω^)
知足(ちそく)
「足るを知るものは富む」という老子の言葉に通ずる言葉でしょうか。
今ある人生に感謝し、足るを知るというのは、大切なことだとわたしも最近理解できるようになってきました。
衣食住が満たされ、健康でいられることにまずは感謝すること。
当たり前の日々に感謝ができるということは、とても幸せなことだと思います。
歩歩是道場(ほほこれどうじょう)
人は、自分次第でいかようにも人生を歩める。
自分の人生は自分次第、自分の心がけ次第でいかようにも自分を精進できるという意味のようです。
自分の人生は自分次第!
これは、わたしがずっと信じてきている信条のひとつです。
明明百草頭(めいめいたりひゃくそうとう)
ひとは、この世に生まれただけで美しく、価値のある存在。
「世界にひとつだけの花」ですね。
これは、とても勇気づけられ、心がほっこりできる言葉ですね。
自分は太ってるとか、容量悪いとか、仕事が遅いとか、口下手だとか、そんなことは、たいしたことではなく、ひとは、よいところも、不足しているとことも、ひっくるめて全部があって個性だと思えば、気が楽になります。
自分を受け入れて、自分が一番自分を愛してあげないと、ですね。
脚下照顧(きゃっかしょうこ)
まずは自分の足元(まず自分の本性)をよく見つめなさい、という意味のようです。
誰かのせいにするのではなく、まずは自分自身をみつめて、反省し、精進しなさいということのようです。
これは、ついつい忘れてしまいがち💦
上手くいかない時に、まわりのせいにしてしまう、不満を言ってしまう、誰かの陰口を言ってしまっている自分がいたら要注意!です。
禅(ZEN)の要素を大切に
禅というのは、平たく言えば、「己」が基本であって、己の人生を豊かなものにするために、己を見つめ精進することと、理解しました。
「無になる」というのは、経験したことがないのでわからないのですが、禅というのは、言葉で問うものではなく、身をもって経験することらしいので、
堅苦しいことは考えず、一日の隙間時間に、周囲の音を全て消して、しーんとなった部屋の中で、座禅を組んでみるのが良いかと思っています。
禅!これからも、ちょくちょく学んで、日々の生活に取り入れてみよう!
それでは、みなさま、have a nic day
byちびまる