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おひとり様女子のエッセイ

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父の葬儀を終えて、今思うこと

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画像:photoAC

 

父の最期

 

父が亡くなってから3週間。

 

父の生涯と最期の日を、自分のそれと重ねて考えている自分がいます。

 

父は、良くも悪くも不器用で、一生懸命な人でした。

 

一生懸命で、勤勉で、努力家という面において、わたしは父を尊敬しています。

 

また、残念なことに、あんまり、まわりから認められるということも、それほどなかったように思います。

 

だから、晩年期においても、承認欲求が強かった。

 

娘ながら、なんだか、ちょっぴり気の毒に思うほど。

 

でも、それはわたしが知っている父であって、わたしが知らない父もいたわけで、例え娘であっても、父という一人の人間を全て理解するなど無理な話。

 

父の最期は、少なからず、母、兄、そしてわたし(娘)に囲まれて、葬儀までの間4日間、なんだかんだと話しかけられて、わたしたちなりに、精一杯、父をあの世に送りだしたつもりです。

 

そういった意味では、父は幸せだったんじゃないかなと、勝手ながら思ったりもします。

 

でも、どうしても、違和感があるのが葬儀という儀式。

 

ちゃんとお別れする儀式として、葬儀というものは大事なイベントなのかもしれない。

 

だけど、どこか義務的というか、世間一般的に当たり前だから、常識だからという側面が強く、普段意識を全くしてない宗派のしきたりに従って、通夜から葬儀、そして納骨など、一連の儀式がとり行われる。

 

なんだか、ちょっと、「嫌だな」と思う自分がいます。

 

故人を想い慕うということより、世間体的に、やらざるを得ない葬儀や仏事。

 

自分がこの世からなくなったら、そんなの要らないと、正直思ってしまいます。

 

目の前の生活で精一杯のわたしの家族、そして親戚、知人など、個人を想い、偲ぶ前に、お金の心配、仏事を滞りなく、粗相なく行うこと、そっちに頭が持っていかれ、それどころじゃなくなるというのが現実。

 

何度も繰り返すようですが、、、それも、普段全く意識もせず、信仰もしてない、先祖代々からなんとなく引き継がれた宗派に沿って行うというのが、やっぱり心に引っかかります。

 

信仰とは

 

わたしの家系は浄土真宗。

 

南無阿弥陀仏:阿弥陀如来さまに心から従い、感謝します

 

と唱えることで、どんな悪人だろうと、生涯を終えた瞬間、阿弥陀如来さまが手ですくってくれて、すぐさま天国の蓮の花にて生まれ変わらせてくれるという。

 

今回、父の葬儀でお坊さんの説法で、はじめて知りました。

 

ざっくり理解したのは、

 

浄土真宗の教えとは、人は所詮、煩悩から逃れられる生きものではなく、どんなに修行したところで、解脱(迷いの苦悩からぬけ出て、真の自由の境地に達すること)はできない、だから、人生そのものが修行であって、その修行(人生)を終えた後には極楽浄土へ行けちゃう、という感じです。

 

ある意味、とても救われる、安心して生きられる教えでもあるなと思いましたが、だからといって、これから自分自身のライフに何か影響するかというと、そうでもない。

 

オーストラリアに在住中に、「君は神を信じてるか?」と唐突に聞かれ、「信じてないし、特別な宗派もない」と答えたら、「一体何を指針として生きているのだ」ととがめられたことがあります。

 

わたしの場合は、幼少時期に特別な教えを教え込まれていたわけでもなく、神を考えたことも、意識することなく成人となってしまったため、ある意味「教養不足」なのでしょう。

 

今のところ、わたしが信じるのは自分自身であり、自分が大切にする人たちであり、自分が「そうだな」と思える事柄です。

 

それは、目に見えるもの(事実ベース)の場合もあれば、目には見えない感覚的なものだったりします。

 

きっと、これからそんな感じで、わたしは生きていくのだろうなと、今のことはそう思ってます。

 

自分の最期を考える

 

今月48歳になるわたし。

 

48歳って、結構もういい年だなぁ、と思ったりもしますが、人生100年と言われる今日この頃、まだ折り返し地点ちょっと手前です。

 

父の最期をみながら、自分の最期はどうありたいか、ふと考える時があります。

 

「最期にどんな人だったと言われたいか」というのは、自己啓発系の学びにて、よく問われる問だと思いますが、自分はどうなのか、考えてみました。

 

「どうありたいか」というより、「どうありたくないか」と考えるほうが、考えやすい。

 

まず、形式的な葬儀や仏事は要らない。

 

そして、お墓も何も要らない。

 

できることなら、粉骨して、どこか自然の美しいところで、風と共に散りたい。

 

そして、「どんな人だったと言われたいか」という問いについても、正直、何か思うことはない、というのが正直なところです。

 

わたしは生きている間に、この世に、この世の誰かに触れて、何かをお互い感じるものが少しでもあれば、それで充分かなと思ってます。

 

人生を終えたら、「誰かに覚えておいて欲しい」という欲求も今のところはないかも。

 

時折、機会があれば何かのシーンで思い出してもらえたら、それでいい。

 

こんなわたしだから、正直、親族の死別において、あまり心を痛めることも、落ち込むことも、それほど強い思いはなく、それはわたしに限らず、わたしの母も兄も同じ感じです。

 

もしかして、これは「DNA:家系か?」と思うほど、わたしの家族は、驚くほど、しんみりしないです。

 

不謹慎と思われてしまうかもしれませんが、わたしも母も、父の葬儀を終えた夜、父のお骨がある中で、バラエティのTV番組を見て大笑いしてるという、なんとも滑稽な風景でした。

 

途中母が「お父さん、どう思ってるかしらね、葬儀の夜に、こんなに、あはは、おほほと笑っている家族を」と言ってましたが、わたしはそれに対して、「たぶん、お父さんも一緒に笑ってるよ」と返したら、うちの母も「そうだねー」と、あっけらかんとしてました。

 

こんな風に思えるのは、もしかしたら、父は3年間入院していて、コロナ禍においてまともに会えず、わたしも、母もなんとなく、どこかすでに「会えない」というその環境に慣れていたため、いざ永遠のお別れという時が来た時には、すでに免疫ができていた、ということもあるかもしれません。

 

これが、ついさっきまで一緒にいて時を過ごしていて、急にあの世に行ってしまったとなれば、また心境は違ったかもしれません。

 

また、依存度にもよるかもしれないと、ちょっと思ったりもしました。

 

わたしも母も、父には依存はしていなかったので。。。

 

でももし、母が亡くなったとなれば、父のそれとはちょっと違うかもしれません。

 

わたしは、父に比べ、母にはたくさん助けてもらった、支えてもらったという想いがあります。

 

また、母のほうが精神的にもとても近いというのもあり、もし、母が亡くなったら、大泣きして、当面立ち直れない自分がいるかもしれません。

 

いずれにしても、こういった感情というのは、その場面に面して初めて湧き上がるものであって、いくら事前に想いを巡らせてみても、わからないもの。

 

きっと、人の一生というのは、人との別れというのは、そういうものなのかもしれませんね。

 

いずれにしても、今を大事に、悔いがないように生きる、それが一番大事と思います。

 

それではみなさま、have a nice day

 

by ちびまる