画像:photoAC熊澤充さん
シドニーで生活していた時に、わたしは、大手日系銀行に7年勤務しました。
ある時、いろいろチャレンジをしてみたくて、銀行勤務にピリオドを打ちました。
慣れた職場、銀行を辞める
慣れた職場を去るのは、とても勇気が要りました。
銀行での職場は快適でしたし、良い仲間に囲まれて仕事をしていたので、なんで辞めちゃうの? と、同僚からは何度も聞かれましたが、わたしの気持ちは次のステップへと向かっていました。
大きな組織で働くことは、収入が安定しますので安心です。
仕事の範囲も明確に決まっています。
自分が契約した範囲のJob Description(職務内容)をこなせばいいのです。
ある意味とても楽、ある意味とても退 です。
わたしは、最終的に、銀行での毎日の仕事に退屈してしまいました。
大きな組織の中で、大きな組織のルールに沿って、決められた範囲で、決められた仕事をやる、というのは、わたしには向いてません。
次のステップとして、わたしが選んだ先は、世界の証券取引所のセキュリティシステム開発に携わるオーストラリアのベンチャー企業で、社員9割がプログラマーという職場でした。
日本人は完全にゼロの職場です。
オーストラリアに居住して、8割以上が現地社員という銀行に勤務し、自分はそれなりに英語ができると思っていました。
でも、現実は違いました。
日系企業で働くnon-Japaneseな社員は、日本企業の文化・風習、日本人に慣れています。
彼らは、日系企業で働く日本人に合わせて、英語でのコミュニケーションをとっていると、わたしは考えています。
日本人が理解しやすい、わかりやすい英語で、話してくれていたと、外に出て初めてわかりました。
オーストラリアの企業で働く
オーストラリアの企業で、日本人の社員はゼロ(というか、アジア人も少数)、どちらかというとヨーロッパのバックグラウンドをもった社員が多い職場で、20代前半のプログラマーがほとんど、という職場は、日系企業の職場とは環境が全く異なります。
話す英語は、スラングは多いし、スピードも速い、話す内容はシステムの話し、非日系のベンチャー企業の仕事の進め方やスピードは、日系大手銀行のそれとは天と地がひっくり返るぐらい、異なりました。
働き方もフレックスな人が多く、誰が、どこで、いつ仕事をしているかもよくわからず、職場にいる人達は、スナック菓子を食べながら、ヘッドフォーンをして仕事をしていました。
ちなみに、スナック菓子は、書類が入っているキャビネット一杯に、チョコレートから、チップスから、キャンディから、いろんなのが入っていて、社員は自由に持ち出してデスクで食べます。
とても衝撃的でした。
わたしの仕事は、役員のPA (Personal Assistant) 秘書でしたが、まぁ、彼らの要求がよくわからず、大変苦労しました。
例えば、景色の良いコンファレンスルームを手配し会議のセッテイングをするというのがありました。
いわゆる経営会議のようなものですが、世界各地から参加者がやってくるような会議だったので、参加者とのコミュニケーションは困難を極めました。
「え?ほんとにこれ会議?」と思うような段取りを要求されました。
ビーチ沿いの開放的な会議室で、料理、ワインやビールのドリンク、宿泊、航空券の手配などなど。
旅行会社で働いた経験が、こんなところで役に立ちました。
結構、みんなわがままでしたので、骨の折れる仕事でした。
チャンスの神様が再び舞い降りる
オーストラリアの企業に勤務して3ヶ月が過ぎようとしていた頃、役員とウマが合わない、やりずらい、と感じていた時期にチャンスの神様が舞い降りました。
わたしは自分がわがままなので、わがままな人のお世話係には向かないようです。
仕事選びを間違えました。
偶然見かけたフリーペーパーに、日系大手の不動産会社が事業立上げのため、オープニングスタッフを募集中という広告を見つけ、すぐ電話連絡。
わたしは、ビジネスについて学びたかったので、事業立上げを経験できる仕事はとても魅力的でした。
オフィスもなかったので、ホテルで面接(ワイン、飲みました)していただき、その場で採用決定。
当日内定を頂きました。
幸い、オーストラリアの企業では、試用期間が終わるギリギリ前だったので、即効辞表を提出し、辞めることができました。
オーストラリアの会社の役員や、わたしを採用した担当者から、文句を言われながらも、わたしは自分の直感を信じて、コマを次のマスに進める感じで、日系不動産会社の立上げスタッフとして働き始めました。
海外で事業の立上げを経験する
会社側が何の準備もしていないまま、わたしは採用されたので、「英語の雇用契約書は、自分で作って」と言われ、自分でドラフトを作り雇用契約条件も、まずは自分で決めました。
現地の社長とよばれる人と、マレーシアンレストランのテーブルの上で、ワインを飲み少々酔いながら、雇用条件を交渉し契約締結しました。
薄暗いレストランのテーブルの上で、テーブルランプの明かりをたよりに、雇用契約にサインをするという、それも、社長がお酒を飲み過ぎて、椅子からごろんと転げ落ちる、というハプニングもありましたが、わたしは無事に採用されました。
はじまりがこんな感じだったので、その後も、大変苦労しました。
オフィス探し、コピー機探し、何のサービス提供するのかを考えたり、ホームページのデザイン考えたり、契約からオフィスの家具選びから、事業のセットアップを経験しました。
事業立上げに携われたことは、わたしにとっては貴重な経験となりました。
楽しいことも、辛いことも、たくさんありました。
突然、会社をクビになる
事業立上げから2年が経過した頃、わたしは突然クビになりました。
いわゆる、position closeによる解雇 というやつです。
わたしのポジションがなくなったのです。
わたしのポジションは、office administrator でした。
オフィスや事業まわりのいろんなことを、全てを担当する仕事でした。
会社の方針にて、事務は不要、営業マンだけを残す、という決断が下されました。
わたしは当時、営業職で入社したわけではなかったので、ポジションチェンジを断る=解雇(クビ)となりました。
要するに、あなたは要りませんと言われたのです。
要らない と言われるのは、とても寂しく、悲しく、辛い経験でした。
オーストラリアは契約社会です。
2週間通知で解雇することができる雇用契約でした。
わたしの落ち度は、2週間で解雇できる契約書にサインをしたことです。
交渉をして、なんとか4週間のお給料を頂くことにて、解雇通知を受け入れました。
悔しくて、悲しくて、大泣きして帰宅した日のことを、今でも忘れません。
良かったことは、自分が解雇されたからこそ分かる、解雇される人の心の痛みを知れたことです。
社会から、切り離される寂しさを知る
会社から、「あなたは、もう要りません」と言われるのは、辛いものです。
仕事を失い無職になるというのは、初めての経験でしたので、経済的な不安も、この時初めて経験しました。
アロマセラピストの仕事だけでは、食べては行けなかったので、私は次の仕事探しを始めました。
オーストラリアでは、リクルート会社に直接出向いて仕事を探すこともありますが、Job Search サイトで仕事探しをすることもメジャーです。
わたしの弱点は、特筆すべきキャリアもスキルもないということでした。
現地の人に比べれば英語も下手、スペシャリストでもない、じゃぁ、わたしの強みはなんなのか、わたしには、特別に何も強みなんてありませんでした。
履歴書を送ったのは100通を超えていたと思います。
100通以上の履歴書を送っても、どこからも返信はありません。
まるで社会全体に、役立たず、要らないと言われている気がして、大きく凹みました。
朝起きて、別にどこに行くでもない、予定がない、というのは、誰からも必要とされてない、社会に必要とされていない、そんな気持ちになりました。
とても、とても、寂しかったです。
朝起きて、予定がない毎日を過ごしたのは1ヶ月ほどでしたが、わたしにとっては、永遠に続くかのような長い時間でした。
そんな時でした。
今の会社に拾われました。
わたしを欲しいと言ってくれた時の喜びは、今でも忘れません。
だから、わたしを拾ってくれた今の会社にとても感謝しています。
誰かに必要とされていると、感じられることは、生きていく上で大切な感情だと思います。
辛いことを経験する価値
わたしは、会社をクビになり、仕事が見つけられないという辛い経験をしました。
結果的には、あの時、会社をクビになって良かったと思っています。
たくさん、涙を流して、胸が張り裂けそうなくらい、悲しくて、苦しい思いをしたけど、なかなか、そんな経験は、したくてもできるものではありません。
あの辛い経験があるからこそ、今の環境に感謝もできて、幸せに生きているのだと思っています。
辛い経験をするということは、同じ境遇にいる人の気持ちをシェアすることができます。
人の痛みがわかれば、優しくなれます。
わたしは、やさしく、たくましく、そして明るく、笑って生きていきたいです^^
いま、辛い境遇にいる人達へ、
大丈夫だよ、まっすぐ生きれば明るい未来が待っているよ!
あなたの頑張りを、あなたの良いところを、ちゃんと見てくれてる人がいるよ
とエールを送りたいです。
人生は素晴らしい^^
byちびまる