画像:photoAC熊澤充さん
英会話スクールで、少しは英語が話せるつもりになっていたわたし。
思った以上に、現実は厳しく、スーパーに行くにも、バスに乗って、お出かけするにも、言葉が通じず、何にもまともにできない日々。
外国に行ってみて初めて分かったことは、英会話スクールの先生は、英語ができない日本人向けに、わかりやすく、ゆっくりと話してくれていたこと。
英会話スクールの英語は『本来の会話のスピードではない』のです。
当然のことだが、現地の人は、普段通りに話すだけ。
バリバリのオージーアクセント聞き取れるはずがない。
スラングだって、当たり前に入ってきます。
1フレーズさえ聞き取れないので、会話が成り立たない。
要するに、まったく、『意志の疎通ができない』のです。
また、ワーキングホリデービザでの渡豪だったので、働き口を探すも、英語もできず、これといって、何の専門技術も知識もない私は、どこにいっても、『無理ですねぇ。。。』と言われて、完全にノックアウト。
現在は、オーストラリアのワーキングホリデービザでは、1つの雇用先で6ヶ月まで働けるようだが、当時のワーホリビザでは、『1雇用先で3ヶ月』しか働けませんでした。
なので、まともな就労先を見つけるのは非常に困難な状況で、その上、英語もできず、パソコンも、まったくできなかった私は、『無能な人間』の烙印を押されっぱなし。
自分にはなんの価値もないのかと、泣いてばかりの毎日でした。
確か、渡豪当時の手持ちきは80万円ぐらい。
働かないと、アロマセラピーの学校に行くどころか、生活すらままならなくなる状況。
泣いている場合ではありませんでした。
まずは、採用してくれた日本食レストランを見つけました。
重たい鍋焼きうどんセットを両手で持てるように練習をして、切り身になった魚の種類を覚えながら、レストランにやってくる外国人への対応をすることで、英語を学んでいいきました。
レストランで英語で聞かれることは、だいたい同じだったので、同じ会話のやりとりに、まずは慣れていき、それを1つ、2つと増やしていくことで、外国での使える英会話を学んでいきました。
現地の生活に、少しずつ慣れてきた頃、転機が訪れました。
登録していたリクルートエージェントから、『日系の大手銀行で、2週間のバイトがある』というオファーをうけました。
どんなバイトか知らずに、自分の中のgut feeling 第六感を信じて、ダメもとで面接を受けたところ、キャラを気に入ってもらえて即採用していただけました。
2週間後、職がなくなる怖さもあったが、自分の第六感を信じて飛び込びました。
byちびまる