- オープンで自由な国での自我の目覚め
- 自分の考えや気持ちを、言葉や態度で表現する文化
- わたしの個性と生きるスタイルの確立
- 自己主張が控えめなタイプのほうが好かれる
- 自分の価値観を捨ててまで、郷には従わない
- 自分の人生に責任を持てるのは自分だけ
- 今、この時の自分を大事に生きる
オープンで自由な国での自我の目覚め
自我とは何か。
心理学的,倫理的意味では経験的な個体性についての意識をいう。
わたしは子供ながらに、自分が何をしたいのか、何が好きなのかがわからない、みんなが興味を持つことに興味が持てないなど、自分の感情を自分で上手く汲み取れず、そのアウトプットもどうして良いかわからないという悩みを抱えてました。
だから、何か意見を聞かれると、他の人に追従したり、迎合したりするのが常でした。
意見を聞かれることが、とにかく嫌いでした。
そんなわたしでも、20代前半に、海外への憧れを漠然と持つようになり、唯一、自分の中で強い感情と意思にて動いて、なんとしてでも手に入れたい夢を持つようになりました。
それが、海外生活を経験することでした。
わたしの人生は、オーストラリアの長期滞在時に培われた経験により、大きく影響を受け、今のわたしがいます。
さまざまな国の文化的背景を持つ人たちが、ひとつの社会である一定のルールに従って共存する多民族国家オーストラリアでは、個々人の価値観や生き方は、単一民族国家の日本のそれとは大きく異なり、多様性に富んでいます。
人間の本質的な共通点は多いとしても、一般的に常識(common sense) と思うことも、大きくずれることもあります。
そういった社会では、たとえ相手の意見や価値観が自分のそれとは相反する場合、「あなたはこう考えるのね、わたしはこう考えるわ」と、意見の相違は当たり前というのが前提で、それぞれを受け入れる努力をし、適当なところで妥協点を見つけ、お互いがお互いの大事に思っている価値観や生き方を尊重(踏み込まない配慮)しながら生きています。
多民族国家オーストラリアの生活の中で、日々直面する多くの問題への対応や、「あなたは、どうしたいの? どう思うの? なぜ、そう思うの?」と、意見のアウトプットとその理由、そして自分の意志確認を迫られる生活環境下で、私の自我は大きく開花し、「自分」という生き物を理解し受け入れるようになりました。
自分の考えや気持ちを、言葉や態度で表現する文化
さまざまな国の文化的背景や習慣を持つ人々で成り立つ社会においては、何においても自分の考え、自分の気持ち、自分の感情をストレートに言葉や態度で表現し、自分が伝えたいことを相手に伝えます。
理由は、相手に自分(考え、気持ち、感情)を理解してもらう必要があるからです。
それは、負の感情や気持ちでも、相反する意見でも同じです。
オーストラリアでは、自分の考え、気持ち、感情などをストレートにアウトプットしていかないと、日々直面する問題解決していかなければ、何も前には進みません。
自分が言わなくても、誰かが声をあげてくれるだろう、なんて思ったところで、何も状況は改善されないのです。
だから、自ら声をあげる、自ら気持ちや、感情、考えを伝えて、自分自身が問題解決にあたります。
それがどんなに嫌なこと、メンドクサイことであっても。
良いことは良い、ダメなものはダメ、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、など、「わたしはこういう人間です、わたしは、こう考えています、感じています」というのを、いろんな場面において、言葉や態度にのっけて表現しないと、相手には伝わらないのです。
それがたとえ、相手にとっては聞きたくないことであったとしても、率直に気持ちや考えを伝えて、自分自身を、自分が置かれている状況を相手に理解してもらう文化や習慣がオーストラリアにはあります(ありました)。
わたしの個性と生きるスタイルの確立
わたしの個性と生きるスタイルは、オープンで自由な国オーストラリアにおいて確立されました。
もともとの「正直」、「まっすぐ」、「シンプル」という性質が見事にオーストラリアの文化にはまり、何においてもオープンで、まっすぐに、自分の考え、感情、気持ちを言葉と態度で表現する人間として、わたしの個性と生き方を確立してきました。
良いことも、悪いことも、目の前にいる相手に対して率直に、そして誠実に、そしてわかりやすく伝える、それがわたしの個性であり生き方なのです。
わたしは目の前にいる相手に対して、どんな時も、誰に対しても、正直でありたい。
でも、こういったわたしの個性や生き方は、時折、日本社会に受け入れられない、理解されないこともあります。
わたしは自分の感情も考えも、相手にわかりやすく表現するので、ぶつかることも多いのです。
〇場の空気を読むよりも、伝えたいことを優先する
〇負の感情も、包み隠さず正直に、言葉と態度で表す
〇相手がどう思うかよりも、自分はどう思うかを優先する
一言でいうと、メンドクサイ、なんて身勝手な人、と思われる性格(個性)です。
わたしを嫌い、苦手と思う人も、たくさんいると思います。
でも、正直なところ、自分のことを嫌い、苦手という人がいても、それは仕方がないことであり、気にしてもしょうがないことなので、相手がどう思うかということよりも、自分はどう思うのか、というところを優先してわたしは生きています。
自己主張が控えめなタイプのほうが好かれる
日本の社会においては、
〇自己主張が控えめ
〇自分の気持ちより、相手の気持ちを優先
〇自分が楽しむより周囲への配慮
〇負の感情や反対意見はオブラートに包む
〇本音と建て前を器用に使い分けられる
というタイプの人は、多くの人から好感を持たれるケースが多いのではと思います。
一緒にいて心地よい、安心なのだと思います。
わたしは、上記のような好感を持たれるタイプとは真逆の個性を持っています。
〇自己主張が強い=自分の意見を明確に伝える
〇相手を尊重はするけど、自分の気持ちは大事にする
〇自分が楽しめることを優先する
〇負の感情や反対意見もストレートに伝える
〇本音でしか付き合わない(付き合えない)
一般的には、個人主義的背景が強い西洋の国々(オーストラリアも含む)と、集団主義的背景が強い日本では、美徳とされる価値観も大きく違うと思いますが、わたしはどちらかというと、個人主義的傾向が強いです。
西洋の国々においては、わたしの個性は受け入れられますが、日本においては、時折、はみ出してしまい、周囲から完全に浮いてしまうことがあります。
はみ出してしまう場合は、自分のスタンスも、相手のスタンスも変えるつもりはないし、お互い変えられるものではないので、話しをしてみて、どうしても折り合わない場合、わたしはその場を去り、自分が適合しやすい環境に移ります。
自分の価値観を捨ててまで、郷には従わない
わたしは、日本も日本人も大好きです。
でも、だからといって、わたしの考える方向性が、日本人の大多数のそれと違う場合、わたしは自分の考えを曲げてまで、大多数の意見や考えに迎合することはできません。
その場を難なくしのぐよりも、わたしは正直に生きていたいんです。
「郷に入ったら郷に従え」という言葉がありますが、わたしは、その土地や環境が自分に合わないようなら、自分の価値観捨ててまで、その環境に留まりません。
自分に適する環境を探し求める努力をします。
自分にとって、快適と思わない環境であるならば、自分が快適と思える環境に移る、もしくは、今いる環境の習慣や風土に全部従うよりも、お互いの妥協点を見つめる努力をします。
わたしのほうだけ、一方的に折れることはしないです。
それが、たとえ、大多数がわたしの反対だったとしても。
どちらが正しいか、正しくないかはどうでもよくて、わたしは、自分が信じる道を選びたい、ただそれだけです。
自分の人生に責任を持てるのは自分だけ
自分の人生に責任を持てるのは自分だけです。
自分のカラダも心も大事にするもの自分です。
だからこそ、自分の考えや、価値観、気持ちや感情は大事にして生きていきたい。
自分に正直に、素直に生きていたい。
こんな頑固で、わがままで、子供っぽくて、メンドクサイわたしですが、わたしはわたしが大好きです。
こんな、大人の階段を登り切れなかったような、わたしの個性を好きといってくれる、もしくは受け入れてくれる人たちのことは、ものすごく大事にしなくてはいけないと考えています。
今、この時の自分を大事に生きる
ひとの価値観や個性、考え方、生きるスタイルは、時間と共に変化していくものだと思います。
だからこそ、今この時の自分の価値観、考え、感情、気持ちを精一杯大事にして、自分の考え、感情、気持ちを、今後も周りの反対意見や、冷ややかな視線を感じたとしても恐れることなく、正直に、ストレートにアウトプットしていきたいと思います。
そのことで、たとえ誰かとぶつかっても、相手に嫌われたとしても、それも人生。
わたしは、負の感情を悪とは思わないし、自分自身が強くなる、味わい深い人間になるためのスパイスだと思っています。
地球上の人口は72億人います。
たとえ、地球上の1億人の人がわたしを嫌いといったとしても、残りの71億人中の100人でも、わたしを好きっていってくれる人がいるとしたら、わたしはそれで十分幸せ。
そう考えれば気も楽になります^^
今後も、わたしはいろんなところに頭をぶつけて、転んで、ひざっ小僧をすりむいて、痛い思いもしながら、わたしという世界に1つしかない人生を謳歌していきたいなと思います。
楽しく、味わい深い、わたし(あなた)らしい人生に乾杯♬
byちびまる