画像:photoACclasicoさん
思いがけないショックと向き合う
最近、思いがけないショックと向き合うことがありました。
それは、有名芸能人の突然の訃報。
特別に、ファンという訳でもないけど、それなりにドラマや映画、バライエティ―などでお見かけし、比較的、自分の中では好感を持っていた人たちだったので、何とも言えぬ、自分でも理解できないショックな気持ちを感じました。
まったく思いがけない突然の訃報に、信じがたい事実と違和感、そして、「なぜ、そこまで追い込まれてしまったのか?」という疑問がじわじわと、迫ってきました。
おそらく、「すべてが順風満帆に見えキラキラ輝いている人」だったからこそ、その結末とのあまりに大きいギャップに、完全に理解不能という状態で、自分の中で処理ができないという状況に陥ったのだと思います。
わたしには、何かに熱狂するという性質がないため、ファンの方々の辛さや悲しさに比べれば、わたしのショックなど、大したことのない部類に入るのかもしれませんが、今までに経験したことのない感情が生まれたのは実感としてあります。
人は見えるものを信じてしまう傾向にあると思うのですが、その目の前に見えているものと、その裏側の自分が知らない世界とのギャップに、ある種の不気味さと、恐怖を覚えました。
きっと、それは、自分自身にもあり得ることであり、可能性はゼロとは言い切れず、自分さえも知り得ない自分のネガティブな一面と出会ってしまった時に、自分は、自分にに生きる価値を見出すことができるのか、その自信さえ危ういと感じてしまう衝撃的なニュースでした。
改めて、生命を全うする意味を、考えさせられた出来事でした。
自分の価値を何で測るのか。
自分以外の人の内面は、わからない。
だから、自分の価値について、自分を軸に考えることは大切と思います。
自分が生きていく価値を見出せなくなる瞬間とは、どんな時なのか。
わたしは、まだ、そういった経験はありません。
自分の生きる価値など考える余裕もなく、精神的に追い込まれ、まるで水中にずっと潜りっぱなしで、息が吸えず、逃れられない苦しい状況なのでしょうか。
よくわからないのだけれど、仮に、「自分の価値」を見いだせず追い込まれた場合、私自身、どうやって、自分自身の価値を再度改め、気を確かに、今日という日を生きていけるのだろうかと、考えてみました。
まず、「価値」とは何か。
その事物がどのくらい役に立つかの度合いのこと。
by Weblio辞書
どれくらい大切か、またどれくらい役に立つかという程度。
またその大切さ。値打ち
by Oxford Languages and Google
ふたつに意味を分けるとすると、
①役に立つ度合い
②大切さの度合い
でしょうか。
価値:①役に立つ度合い
わたしは、誰の役に立てているのだろうか。
そして、どのように役に立てているのだろうか。
そして、その貢献度合いは、どれほどのものか。
わたしに関わる人と言えば、
1.家族
2.友人
3.仕事関係者
4.生活圏内で関わらる人(お店など)
5.道行く人(ほぼ他人)
でしょうか。
役に立てること、と言えば、
1.話を聴く
2.困った時に助ける
3.励ます
4.奉仕する
5.利益を生み与える
6.対価を支払う
7.応援する
ぐらいでしょうか。
役に立ててる度合いを測るとなると、これは、なかなか難儀なもの。
おそらく、多くの人々に対して、耳を傾け、励まし、困った時には手を差し伸べ、利益を生み与えられれば、その分、多くの人々から、価値のある人物と見なされ、それが、人望となるのでしょう。
そう考えると、わたし自身は、誰かの話を聴くより、言葉を発するほうが多く、また、どれだけの人を励まし、困った時に手を差し伸べて、周囲に対して利益を生み出しているのかと考えると、正直なところ、大したことは何もやっていない気がします。
どれぐらい、誰かの役に立っているかを考えると、「?」です。
価値:②大切さの度合い
これも、「誰にとって」というのが難しい。
誰にとって、大切で、その大切さの度合いはどれほどのものか。
例えば、、、
〇親からどれほど自分は大切と思われているのか。
〇友人からはどれほど自分は必要とされているのか。
〇職場からはどれほど自分は必要とされているのか。
〇社会からはどれほど自分は必要とされているのか。
〇自分自身、自分をどれほど大切な存在と思えるのか。
正直なところ、なかなか具体的な答えを見つけるのは難しいし、大切さの度合い「どれほど」を測るのも難しい。
結局のところ、目には見えない、自分自身が感じる「実感」という感覚でしかなくて、人の価値なんて、「どれほど役に立ち、どれほど大切か」なんて、測りようがないように思います。
他人に主軸を置くと辛くなる
結局のところ、人が自分の価値をどう思ってくれているのか、また、それがどの程度なのかなんて、わかりようがなく、考えてみても仕方がないことなのではないかと。
芸能人やアスリートなど、いわゆる有名人と呼ばれる人たちにとっては、世間からの評価の「どれほど」によって、仕事の量と質に直結していくのだろうから、そう考えると、やはり芸能界やプロの世界というのは、とても過酷な世界と察します。
特に、今の世の中、容易に世間における自分への評価を知ることができるため、有名人の場合は、精神面の負荷が半端なく大きいのだろうなと思います。
わたしのような一般人においても、人と関わらずに生きていくのは不可能であって、少なからず、他人の評価にさらされ、精神的ストレスを受けながら生きています。
もちろん、周囲の人々にとって、極力、迷惑な存在にならないように、気をつけなければならないとは思いますが、周囲の評価を軸にして生きてしまうと、周囲の人が認めてくれるようにと無意識に装ってしまったり、常に周囲の人々が自分をどう思うのかということばかりが頭の中を占めてしまい、辛く、苦しく、つまらない人生になってしまいます。
要するに、偽りの自分を知らず知らずに生きていくことになります。
こんなことを言ったら、嫌われてしまうのではないか。
こんなことをしたら、ばかにされるのではないか。
というふうに、周囲の評価に怯えながら生きていくようになってしまいます。
そんなの、、、辛すぎるし、苦しすぎるし、寂しすぎる。。。
人生は、楽しむためにあるもの。
それは絶対忘れちゃいけない。
自分の価値は自分が決める
結局、ここに行きつきます。
自分の人生は自分が決める
自分の価値は自分が決める
自分を自分が一番愛してあげる
独りよがり、自分勝手に聞こえるかもしれませんが、ものごとを、どのような角度で見て、どのように感じ取るかは自分次第であって、それだけが、自分自身で決められることだから、自分自身の人生を全うすることに注力するしかない。
もしかしたら、子を持つ親というのは、違うのかもしれない。
わたしは、子を持ったことがないので、その気持ちはわからない。
いずれにしても、やっかいなのは、時に、感情は、自分自身のものであっても、コントロールができないものであるということ。
感情に支配されてしまうと、理性は効かない。
わたしの場合、感情に支配されやすい性質でもあるので、感情のコントロールをできる人は、大変うらやましいです。
自分が感情に支配されやすいとわかっているからこそ、なるべく、負の感情に自分をさらすことがないように気をつけています。
自分の感情が落ちる(ネガティブ)になるような場所、環境に、なるべく自分自身を置かないようにしています。
そして、なるべく、自分自身が、ハッピーで、エネルギー満タンで、元気一杯でいられる環境に身を置く努力をしています。
素の自分自身を受け入れてくれる、認めてくれる、好きでいてくれる人たちに囲まれているようにすることも大事です。
そして、なるべく、深刻になり過ぎない(これ、すごく大事)、思いつめないような雰囲気を作ってくれる人たちと一緒にいることも大事です。
どうしても、環境を選べない時には、隙間時間を上手く利用して、自分で自分の「陽」な環境を作り出す努力をすること、一時的に精神的に逃げられる場所を確保しておくことです。
一瞬でもいい、自分の心を開放させて、自分の心を安心させ、喜ばせるような、プラスの感情を生み出せる環境に身を置くことも大事です。
そうすることで、きっと、気持ちは軽くなり、今という時間と、自分に温かい灯りを感じることができ、明日への活力を見出せるはずです。
そして、自分という生を大切にしたいと思う気持ちが芽生えて、周りに何と言われようと、どう思われようと、「わたしはわたしで良いのだ」と思えれば、わたしという人間に、わたしは価値を感じることができます。
誰と比べるでもない、わたしという自分が、今を一生懸命生きていれば、それでいいのだと、自分で自分の生命価値を認めてあげるようにしています。
自分が生きている意味など、きっと、「世の中に存在している」という以外、答えはないけれど、それでも、今ある生命を全うするという責務は負っているわけで、それを投げ出してはいけない、どんな時であっても。
何気ない日常に価値を見出す
ビッグなスターになれるとは限らないし、何万人ものファンを作るインフルエンサーになるとも限らず、また、なる必要もなくて、人は生きている以上、生きているだけで、何かしら存在することの意味がきっとあるのだと思います。
自分の心に素直に、ありのままの自分を受入れ、ありのままの日常を愛することができれば、きっと、何気ない日常に、たくさんのキラキラ光る素敵なものを見つけられるはず。
当たり前の言葉だけれど、魔法の言葉があります。
それは、「ありがとう: Thank you」、そして、「ごめんね: I am sorry.」この2つ。
わたしは、なるべく、「いつも、ありがとう」を身近な人に伝えるようにしています。
気持ちがギスギス、心がとげとげしているときに、なかなか言えないこの2つの言葉。
でも、無理にでも口に出していってみると、意外と、心が穏やかになっていくものです。
そして、なるべく、笑うようにしています。
どんなにくだらないことでも、なるべく、笑ってみることにしています。
形だけでも、笑ってみると、意外と面白かったりもして、「なーんだこれ、へんなの」と、本当に笑えちゃったりするものです。
また、時には、泣いてみるのも、いいものです。
なんでもいいんです、映画でも、ドキュメンタリーでも、本でも、おしゃべりの中でも、けんかでも、転んで膝小僧を擦りむいたーでも。
大人になって、わんわん泣くことって、そうそうないですが、わんわん泣いてみるってのも、意外と精神を安らかにしてくれるかもしれません。
そうやって、気持ちをリリースした後に、きっと、目の前の何気ないことが、とても素敵なことに思えたり、今まで深刻に思いつめていたことが、急にばからしく、どーでもよく思えたり、自分の感情を通じて、自分自身の価値というか、生きるためのエネルギーが湧いてくるのではないかなと、思います。
結局答えは見つからないけど・・・
結局、自分の価値や、生きる意味なんて、答えは出ない問なのかもしれません。
この世に生まれた以上、与えられた肉体と魂を使わせてもらって、いろんなものを見て、感じて、自分を通じて表現していくこと以外、特別何ということはないんじゃないかなーというのが、今のわたしの答えです。
もちろん、後世にも自分の名前を残したいという欲が強ければ強いほど、志は高く、自分を追い込み厳しい世界で生きるという道もあるけれど、そうではない場合、「自分は宇宙のひとつの小さな星以外何物でもない」と思って、「今この時を、ただ一生懸命生きる」というだけでも、いいのではないかと思います。
わたし自身は、今のところ、「大きく世の中を動かしてみたい!」みたいな欲望は大してなく、どちらかというと「今、この時を、一生懸命生きる」ただそれだけ、という感じです。
そう思えば、心は軽く、あまり自分の価値とか、思い悩むこともなくなります。
たった数十年の生命ですが、自分なりに地図を描いて、ゴールがどこかはわからなくても、毎日1歩ずつ、時を刻んでいけたらいいなと思っています。
また、数十年も続く生命と思っていても、いつ、どこで、自分の意志とは関係なく、命の灯を消すことになってしまうかなんて、わからないのだから、わざわざ自分の意志で、その炎を急いで消すことはないです。
最期、どこにたどり着くんだろう・・・と、まったく、見えないですが、ゴールが見えなくても、とりあえず、3歩先ぐらい見えていればいいかなと思って今を生きています。
自分の価値は、自分が「価値あり」と思えば、それでよし。
それでは、みなさま、have a nice day
by ちびまる