空飛ぶちびまる (自由気ままに)

おひとり様女子のエッセイ

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ありのままに生きること それは、自分を受け入れ自由に生きること

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ありのままの自分ってなんなのか?

 

Let's it go -, Let's it go, (ありの~ままの~♬)

 

アナ雪でおなじみの、Let's it go ありのままで。

 

あんまり、歌詞を考えないで歌ってましたが、よくよく歌詞を眺めてみると、なかなか良い歌詞だなぁ~と、しみじみ思います。

 

わたし自身は、どちらかというと感じたことをそのまんま表に出して行動に移してきたタイプなので、比較的自由に生きてきた(そして、今も生きている)ほうだと思っています。

 

閉じ込められたリ、押さえつけられたり、自分の気持ちをふさぎ込むことも、ほとんど経験がないまま、40代まで生きてきてしまいました。

 

そんなわたしですが、いざ、自分が本来のわたしを、そのまま、本当にありのまま、素直な自分をそのままだして、自由な心を持って生きてきたかと客観的に考えてみると、意外とそうでもなかったと思っています。

 

やっと、40代半ばにさしかかり、若干、肩の力を抜いて、自分らしく、ありのままに!?生きられるようになってきた気がします。

 

「自分勝手に、わがままに生きる」というのと、「ありのままに、素直に生きる」というのは、似ているようで、ちょっと違う気がします。

 

今現時点のわたしは、自分勝手ということを十分認識しつつ、自分らしく、ありのままに、素直に少しは生きられるようになってきたと自負しています。

 

ここまでくるには、結構いろんなところで、頭をぶつけて、すっ転んで痛い思いをしながら、泣いたり、笑ったり、怒ったり、また叱られたりしながら、自分と向き合って生きてきたと思っています。

 

時に、自分の貪欲さや未熟さゆえの見栄や虚勢などが邪魔をして、「ありのままの本来の自分」を、自分自身で自分を上手く表現できない場合もあるのかなぁと思います。

 

人は、ありのままの自分を出すことが、時に恥ずかしかったり、引け目を感じたりして、なかなか、そのまま素直に出せない時があります。

 

わたしにも少なからず、他人と比較して、他人よりももっと上に、もっと素敵に、もっと良い暮らしをなど、とにかく他人よりも上回っていたいという欲や見栄があって、自分を自分以上に良く見せたいと思う気持ちがあります。

 

一言でいえば、虚勢です

 

つまらない、見栄です

 

見栄は、誇りとは違います

 

虚勢や見栄を張ることによって、自分が夢見る自分にはなれません。

 

それは、まぼろしです。

 

夢を見ることと、虚勢や見栄を張ることも違います。

 

夢をみて、ひたむきに努力をするのと、夢をみて、虚勢や見栄を張るのでは、だいぶその先が異なってきます。

 

わたしは、とても欲張りなので、知らず知らずに肩肘をはって、背伸びをして、見栄を張って、虚勢もはって、自分という人間を全面に表現して、自分なりに精一杯生きてきました。

 

自分のことを、自分で客観視するというのは、難しいことです。

 

多くの人に言われました。

 

「そんなに背伸びしないの、肩肘張らないの、肩の力をもっと抜きなよ。」と。

 

最近では、あんまり言われなくなりましたが、20~30代の私は、しょっちゅう、特に年上の人から、そういった言葉をかけられていました。

 

どの辺が肩肘はって、背伸びしているのか、当時の自分は、なんぜそんなことを言われるのか、ぜんぜんわからなかった。

 

でも、今思うと、わたしはいつも、これといってとりえもなくて、キャリアアップもできなくて、役職もないし、スペシャリストでもないし、目に見えて、他の人に自慢できることがなかったんです。

 

まわりの人から、「すごいね」って言われたくて、「うらやましいな~」って言われたくて、特にキャリアの面においては、そう思われたい自分がつい最近までいました。

 

わたしには、他人から尊敬されたい、慕われたいと思う自分、他人から認められたい自分がいて、その欲求が人一倍強いという一面があります。

 

そうなりたい自分がいる=そうなれていない自分がいる、ということなんだと思います。

 

つい最近まで、わたしは、わたしのことをもっと評価してくれる職場環境があるのではないか(特に待遇面において)という考えを持っていて、機会があれば、もっと高給取りになりたい、もっと高い役職(タイトル)が欲しい、ということを考えていました。

 

英語もできるようになって、MBAもとって、リクルーターから電話がかかってくるようになって、今の給料より2倍ぐらいの職の案内をもらったりするようになって、そんな気持ちがさらに高まって、自分自身を本来の自分以上に過大評価するようになって、自分を危うく見失いそうになった自分がいたことも否めません。

 

今でも、そういった他人に認められたい気持ちがないかと聞かれれば嘘になるけど、なんとなく、最近になって、自分にとっての幸せとは何なのか、が見えてきました。

 

ひとは、これを諦めと言うのか、自分を見つけたと言うのか、それはわかりません。

 

でも、自分自身では、自分の良いところも、ダメなところもひっくるめて、自分を心から受け入れられるようになってきたと感じていて、以前よりも、もっと心は自由に、そして、もっと毎日が楽しく、今目の前にある環境や境遇に感謝できるようになってきました。

 

自分探しの旅をやってみる価値はある

 

「ありのままの自分ってどんな?」と、実際のところ、自分自身も、よくわかってなかったりして、「わたしはいったい何者なのだ!?何がしたいのか?、何ができるのか?なんで、この世に生まれてきたのか?」みたいな、アンパンマンのマーチじゃないですけど、自分の存在価値や意義などを、ふか~く考えてしまったりして、20~30代の頃なんて、自分探しの旅=答えのない旅(迷宮入り)をしてしまった経験もあります。

 

どうしても、「自分は特別な存在」と思いたくて、思われたくて、自分にしかできないことがあるんじゃないかとか、目の前にある境遇は、本来自分が受けるべき内容ではないとか、自分はスーパースターになれるんじゃないか?とか、言ってみれば、ちびまるこちゃんが、ももえちゃんのようにステージに立つ夢を見るのと似たようなことを考えて、あれこれと夢をみてしまうんです。

 

でも、そういった、貪欲さというか、夢見る乙女心があるのも、それはそれで悪いもんではなく、それが生きる力になったり、努力したり、工夫をしたりする糧になったりもします。

 

自分にとって、最善の生きる道を見つけたくて、将来に安心したくて、自分探しの旅に出て、迷路の中で迷子になって、疲れ果てて、泣いたり落ち込んだりするのも、良い経験になるんじゃないかなと、思います。

 

わたし自身、10年前、20年前に夢見ていた姿とは、実際にぜんぜん違う場所にて、違う生き方をしているけれど、今までの人生の中で、今が一番幸せで、今が一番充実していると思えるってことは、そういった、痛みを伴った遠回りも、決して無駄じゃなくて、どちらかというと、それがあったからこそ、今の自分がいるんだと思うことができます。

 

それはきっと、その時の自分が、自分なりに一生懸命生きていたからこそ、今につながっているのだと思います。

 

たいせつなのは、泣いても、どん底に落ちても、ある意味都合の良い、開き直る強さを持って、「そんな過去のことは、どうでもいいや」と思える自分、もしくは完全に忘れちゃう自分がいれば、今目の前にある環境で生きていけるんだと思います。

 

自分の欲しいものが何なのかって、一生懸命探してみないと、とことん欲してみないと、きっと、わからないものなんだと思います。

 

その過程の自分の姿は、もしかしたら、かっこ悪いかもしれません

 

でも、それは、それで、いいんじゃないかと。

 

自分が欲していたものを見つけられればラッキーだし、見つける途中で断念、もしくは路線変更しても、それはそれで、自分の人生

 

自分自身で「こっちかな?」と、直感でも、手探りでも、よくよく考えてでもいいから、自分なりに一生懸命答えを出して進んできた道なら、きっと、それは充実した人生になるんじゃないかなと。

 

自分は、自分にしかなれない

 

スマップの、世界にひとつだけの花

 

この歌、好きです

 

花の例えはわかりやすい。

 

いろんな花があって、それぞれの花には特徴も良さもある。

 

ほんと、人間と同じだなと、つくづく思います。

 

花に限らず、どんな生きものも、所詮同じ気がします。

 

わたしは、

 

セクシーでオトナな女性に似合う真っ赤バラも好きだし、

 

女性らしくて可愛らしいスイトピーも好きだし、

 

凛として静寂な印象のカスミソウも好きだし、

 

あはは~っ!って大きな口空けて笑ってそうなヒマワリも好きだし、

 

普通の一般庶民な感じで、道端にたくさん生えてるタンポポも好き

 

花には、いろんな印象の色や形、そして香りがあってどれも素敵。

 

この花が好きという人もいれば、えー、わたしは嫌いという人もいるので、まぁ、ひとも同じで、この人好きという人もいれば、えー、わたしは苦手という人もいます。

 

なので、他人が自分を好きであろうと、嫌いであろうと、正直どうでもよいことのような気がします。

 

だって、その人なりの味もあるし、良さもあるのだから。

 

花は、生えたいところに生えてるし(人の手で、生やされる場合もあるんだけど)、別に、誰にどうみられたくて、その形や色や香りになったわけじゃないんだろうし、ただ生えて、咲いて、そして枯れていく(死んでいく)のだろうから、そう考えると人も同じ気がします。

 

人も自分が産まれる場所を選んできたわけじゃないし、幼少の頃は生きる場所は、ある程度決まるだろうけど、大人になれば自分の意志で、どこにいってもいいし、何をしてでも生きればいいし、そして、早かれ遅かれ、どこかのタイミングで人は死んでいくのだから、今この時を好きなように、そのまんまの自分で生きればいいやと思えます。

 

そう思ったら、なんだか、他人に評価をしてもらうことに、それほど固執する必要性を感じなくなってきて、どのみち、どんなに憧れる対象があったとしても、自分はその人にはなれないのだし、それだったら、自分が心地よいと思う場所で、心地よいと思う生き方をすればいいんじゃないかなと、思えるようになりました。

 

明確な夢がなくてもいいんじゃないか?

 

「大きな夢や目標を持て!」と、多くの大人はよくいいますが、小さな夢さえも、思いつかない人もいるんじゃないかなと、わたしはちょっと思ったりします。

 

だって、わたし自身、特別、夢という夢がなかったんだもん。

 

わたしは、あんまり、特別にこれ!っという興味を持つことができるタイプではなく、小学校の時の授業で、「夢の投票」みたいのがあって、ものすごく困ったなぁ、と感じていたことを覚えています。

 

なんにも思いつかなくて、適当に「パン屋」と書いて投票箱に入れたら、わたしのパン屋だけが1票しかなくて、「だれなんだ、このパン屋って~!笑」みたいに盛り上がってしまって、笑われた記憶があります。

 

今でこそ、パン屋は夢の職業の一つかもしれませんが、わたしが小学生のころは、決まって、スチュワーデスさんか、幼稚園の先生、そしてお菓子屋さんが圧倒的に人気があって、パン屋なんて地味な夢(今ではそんなことありませんが)をあげる人はいなかったんです。

 

そのぐらい、わたしは、夢はなんだと聞かれると、とっても困ってました。

 

他の人たちが、全員明確な夢を持っていたのか、いるのか、実際のところはわかりませんが、少なくてもわたしは、明確な夢を持たずに幼少期を過ごしました。

 

20代前半に、ようやく、「英語がペラペラしゃべれたらな~」とか、「海外に住んでみたいな~」とか、「アロマセラピストになってみたいな~」とか、なんの根拠もない、ゆる~い憧れを持って、まずはやってみた、ということを繰り返してきたわたしです。

 

幸いわたしには、行動力はあったので、「まず、動いてみる」ということはでき、そのおかげで、今日、なんとなく、自分のやりたいことができる大人になれた、というわけです。

 

なので、明確な夢がなくても、どこかのタイミングで、なんとなくでも、やってみたいというものが見つかれば、それでいいんじゃないかと思っています。

 

わたしの中の、ありのまま

 

わたし自身、ありのままで生きられているのかと言われると、自分でもよくわかりませんが、以前よりも、なんとなく、自分自身をそのまま受け入れることができるようになり、不必要な欲望を持たなくなりつつあります

 

不必要な欲望とは何か。

 

わたしなりに思っていることは、自分自身が本当に欲しているわけではないのに、ただ単に、周りから「すごいじゃん」と言われたいから欲しい、と思う欲望です。

 

例えば、

 

今の暮らしで十分幸せで、今のままで経済的にも困ってないし、いいはずなのに、もっとお金が欲しい、年収を倍にしてみたい、と思うことです。

 

なんで、もっとお金が欲しいのか。

 

わたしの場合、それほど、物欲が強いわけでもないし、何か特別にやりたいことがあるわけでもなし、何か特別お金が必要と思うものもないのに、もっとお金が欲しいと、思っている自分がいました。

 

それは、ただ単に、それだけ収入を得られる自分を他人に見せたいから、ただそれだけなんじゃないかということに気がつきました。

 

正直、もともとめちゃくちゃ庶民的なんだし、贅沢したいと思ったところで、それほど、思いつくこともない。

 

せいぜい、

 

〇美味しいものが食べたい

〇面白いところに旅行がしたい

〇好きな人と時間を過ごしたい

 

それぐらいです。

 

でも、考えてみたら、ぜんぶのことが、今でもやろうと思えばすぐにできることであり、もうすでにわたしは日常的にやれちゃっているんです。

 

どういうわけか、特別欲しいなーと思う贅沢なものが、それほどないんです。

 

特に物は要らない^^;

 

今手元にあるもので十分だし、それらが壊れちゃったり、使えなくならない限り、わたしは、今あるものを使いたい。

 

物が増えれば迷いもで出ちゃうので、物事がシンプルに行かなくなっちゃう。

 

それがメンドクサイ^^;

 

想像力に乏しいのかもしれませんが、それが自分なのだから、しょうがないです。

 

あえて言うなら、面白い仕事がしたい、ということかな。

 

わたしはあれこれ自分で考えて動く仕事が好きなので、楽しいな!って思える仕事が、自分の裁量で責任をもってできるのであれば、それはやりたいことです。

 

今でも、十分楽しい仕事をさせてもらってはいるのですが、もっと、ダイナミックに自分で舵取りができたら、もっと楽しいかなと。

 

今のままで、結構、満たされている自分がいるので、それほどストレスもないし、経済的に困ることもないし、一人だから、どこかに遊びに行きたいって思えば、すぐにふらっと出かけられるし、だったら、今のままで十分いいんじゃないか?と思ってしまいます。

 

スーパー自己成長したい人!にとって物足りないかもしれませんが、わたし自身は、自己成長はもちろんしたいですが、それよりも、楽しく生きたい、そっちのほうが最優先です。

 

健康第一、そして、楽しさワクワク第一です。

 

それがない仕事、それがない生活は、欲しくないです。

 

成長を求めるより、楽しく生きたい。

 

それが、わたしなのです。

 

今は、特別、習い事をしたいとも思わないし、ステップアップのための自分磨きとかも興味はまったくないです。

 

それよりも、自分が「いま、これやりたい」と思った瞬間にやれる環境に身を置き、すぐ仕事、すぐ遊ぶ、すぐ探検、すぐ誰かに会いに行くなど、「ん!?これは!」と思った時に、身軽にやりたいと思ったことをやってみる環境があれば、それでいいと思っています。

 

そのことに気がついてから、高給取りになりたい、もっと上を目指したい、という欲求が前よりずーっと薄れて、今この時を楽しめば、それで十分じゃないかと、肩の力も抜け、ありのままに、自分ができることを、自分がやりたいようにやればいいと、思えるようになりました。

 

それ以来、わたしの「ありのままに」は加速度を増し、

 

それほど、他人と比べて自分がどうだとかも気にしなくなり、

 

また、自分のことを嫌い・苦手という人がいても、それはそれで自然だし、

 

自分を好いてくれる人がいて、自分もその人が好きだなと思えば付き合えばいいし、

 

どこかのタイミングで、お互いの歯車が合わなくなれば、自然に離れて行けばいいし、

 

その辺りは、流れに任せて生きればいいかなと、思っています。

 

自分の思うように、自分が「これ」「こっち」と選択し、風に吹かれるがままに生きていけばそれで良いのだと、心から思えるようになりました。

 

どこかのタイミングで障害物が出てくれば、その時に考えて対処すればいいし、どのみち、大変なことにぶつかれば、大変な思いをするしかないのだから、その時に自分ができることをやればいいと思ってます。

 

自分の良いことも、悪いことも、できるなわたしと思える点も、だめだなーわたし、と思える点も、全部ひっくるめて、これがわたしと思えれば、あとは、「わたし」の意志と感情に従って生きていけば、わたしの生は全うできると思います。

 

世間にとっては、何が正解かどうかはわかりませんが、わたし自身においては、これが、ありのままに、自由に生きること、と思っています。

 

まぁ、何より、自分自身が楽しく、笑って、明るく生きられたらいいかなって思います。

 

みなさまにとっても、良い人生でありますように^^

 

byちびまる