空飛ぶちびまる (自由気ままに)

おひとり様女子のエッセイ

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海外ビジネス 個の特性を活かしてチームとして働く わたしの働き方スタイル

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平昌オリンピックを観戦して思うこと

 

今、ちまたでは、2018年冬季平昌オリンピックの話題でいっぱい。

 

わたし自身も、フィギュアスケートの羽生結弦選手や宇野昌磨選手の演技、そしてスピードスケートの小平奈緒選手らの躍動感あふれるスケート、そして彼らのインタビューを何度もテレビで拝見し、アスリートとしての彼らの仕事ぶり、そして強靭な心と体に関心しっぱなしの毎日です。

 

競技はもちろんのこと、彼らのインタビューの受け答えが、とても20代前半とは思えない、しっかりとした対応だなーと、いつも関心します。

 

努力と厳しい練習を重ねて、そして4年に1度、それも数秒~数分で結果を残さなければならないプレッシャーに打ち勝つということが、どれほど大変なことなのか、日々、平々凡々と生きているわたしからは、想像もつきません。

 

もちろん、彼らは生まれ持った素質、そして幼少の時期から、ほとんどの時間を競技で勝つために費やし、その才能と努力を掛け合わせた結果、オリンピックに出場し、メダルを獲得しているのだろうけれど、オリンピック選手の凛々しい姿を、テレビの前でポテチを食べながら観戦している自分と照らし合わせて考えてみると、同じ人間でも、こうも違うものかと、感慨深いものがあります。

 

そもそも、オリンピック選手と自分を比較すること自体、おこがましい限りなのですが、今ではスーパースターの羽生結弦選手だって、最初からスーパースターになることを約束されていたわけではなく、彼が日々コツコツと積上げてきた結果、普通の男の子から、世界が認める王者羽生結弦選手になったのだろうから、やはり、人生において、ついてくる結果というのは、その人が選んだ道、そして生き方が大きく関係するのだろうと思います。

 

とは言え、羽生結弦選手のようなスーパースターになれる人は一握り、いや、一握りもいないかもしれません。

 

才能を持ちつつ、桁外れの努力家、そして「勝ちたい、一番になりたい」という、ものすごく強い欲望、そしてその実現を支える家族や周囲の方々がいて、いろんなことが重なりあって築き上げられた彼の功績とカリスマ性。

 

一部の限られた人間にしか成し得ない偉業。

 

人を惹きつける力、魅せる力、それは、すでに引退された浅田真央さんも同じですね。

 

彼らには、他の競技者からは感じられない、ドラマと、なんとも言えない魅力があると感じています。

 

人を熱狂させる要素としては、実力者であり努力家である彼らは、「何が何でも勝ちたい!!!」という、貪欲さが全身に溢れ出ていていて、その貪欲さが見える中、物事が上手くいかない波乱に満ちたドラマを、わかりやすく繰り広げる力を自然と持っている、ということなのではないかと思います。

 

羽生選手にしても、浅田真央さんにしても、感情や表現が豊かというか、喜怒哀楽がそのまま顔に出る、体から滲み出ていて、その感情が見ている人にも伝わってくるからなのかなと思います。

 

逆に、背景にどんなにドラマがあったとしても、それがにじみ出ることがない選手の場合は、どこか淡々としているように見えるというか、その冷静さがそのまま、見ている側にも熱として伝わってきて、一言でいえば盛り上がらない、熱いものを感じにくい、ということになるのかなと思います。

 

周りを惹きつける力というのは、自身の中に持っている熱いものを、何らかの形で、体から滲み出して、それを人々に体感させる力なのかなと思います。

 

その形がどうであれ、人それぞれが持っている持ち味で、それを上手く周囲に伝えられる人が、周りを巻き込む、惹きつけることができる人なんだろうと思っています。

 

まだ、わたしには、そういった力はないけれど、また、羽生選手のようなスーパースターのようなカリスマ的存在には到底なれっこないですが、わたしなりの、熱の出し方があるだろうから、自分の中に灯る小さな種火を、わたしらしく体から滲み出せるようになれたらいいなと思います。

 

人が持っている性質を理解しながら働く

 

わたし自身の個性もそうですが、個々人が持っている能力や性質はさまざま。

 

オリンピックという一流アスリートの舞台から、自分が存在する現実の舞台に話を戻すと、わたしを含めた一般人で構成される職場では、アスリートのように個として結果を出すよりも、チームとして結果を出すことが求められます。

 

チームで働いて、そこにいる人達の力を総動員して、最大限の結果を出すには、そこにいる人たちの性質を上手く活用しながら、わたしと彼らが持つ力が上手くプラスに転じるような働き方が必要かなと感じています。

 

また、わたしが働く普通の職場においては、アスリートのように日々全力100%の力を出し切って働ける人なんて、そうそういません、わたしも含めて。

 

毎日、厳しさ100%の環境において8時間労働するのは、精神が病んでしまうかもしれません。

 

甘いと思われちゃうかもしれませんが、わたしは、ほどほどに、が良いと思っています。

 

そうじゃないと、長く続かないし、健康維持も難しい。

 

また、わたし自身の勝手な考えだけで言うと、苦手なところは目をつぶる、そして、得意なところに焦点を当てて、仕事を進めるようにしたほうが、みんなハッピーで、ストレスも少なくて済むんじゃないかなと。

 

もちろん、人命を預かるような職場においては、そんな生ぬるいことは通用しないのかもしれませんが、そうでない場合は、そんなにガチガチにがんじがらめに、厳しくする必要はないんじゃないかなと。 

 

誤解を招かないように、一応説明をいれますが、これは、怠けて良いということでもなく、また、能力向上のための努力や創意工夫をしなくても良い、ということでは全くありません。

 

人によって、持っている能力も、性格も違うので、努力する方向性や働くスタイルやアプローチなど、個々に合わせたやり方や、スピードで、いいんじゃないかな、ということです。

 

得意・不得意などを考えて働く

 

ひとによって、得意なこと、不得意なこと、それぞれ違います。

 

ひとによって、好きなこと、嫌い(苦手)なこと、もそれぞれ違います。

 

また、性格ひとつとっても、

 

〇外向きな人(社交的)・内向きな人(非社交的)

〇チームをオーガナイズできるかどうか

〇単純作業を延々とやれるかどうか

〇真っ白な状態から構想できるかどうか

〇マルチタスクができるかどうか

〇緻密かおおらか(おおざっぱ)なのか

〇エネルギッシュか穏やかか。

〇前に出たがりか、控えめか。

〇覚えが早いか、遅いか。

 

など、いろいろあります。

  

たとえば、覚えが遅い(悪い)人に、「1回で覚えて!」というのは酷だと思いますし、本人に大きなストレスがかかります。

 

わたし自身、覚えが良くないほうなので、1回教えられただけじゃ、忘れちゃうし、できないことも多いです。

 

そんな時に、もう一回同じことを聞くと、「前にも聞いたよね?、言ったよね?」と、厳しく突っ込まれると萎縮してしまいます。

 

ひとによっては、1回教えたことは、メモして覚えておくのが当たり前!

 

と、1回教えたことを何度も教えることに、抵抗を覚える人もいます。

 

おそらく、プロフェッショナリズムに欠けると考えるからなのでしょう。

 

でも、わたしは、何回でも、覚えられるまで、気軽に聞ける、安心して聞ける職場環境のほうが良いなと考えています。

 

だって、人によっては、仕事を覚えるスピードや処理能力はぜんぜん違うのだし、それも仕事を始めたばっかりの人に対して、全てのことを1回で覚えろというほうが無理というものです。

 

人によって、今までどのように時間を過ごしてきたのか、そして仕事と向き合ってきたのかも、大きくバックグラウンドも異なります。

 

人によっては、職場の背景もよく理解していなければ、今目の前にある作業の意味も、あまり理解してないかもしれない。

 

だけど、人って、何度も、何度も作業を繰り返して、失敗しながら、いろんなことを学んでいくもの。

 

失敗を恐れて、いろいろアイディアを出すことや、意見・提案してみることを諦める、もしくは余裕が持てなくなるほど、ピリピリしている職場環境では、のびのび仕事ができないと思っています。

 

また、たまに、同じ話をしてしまうことがありますが、そんな時に、「あ、それ、前も聞きました」と、ピッシっ!と言われちゃうと、「あれ、これも、前に言ったかな、どうだったかな」と、話しをすること自体、億劫に、臆病になってしまいます。

 

確かに、同じ話を何度も聞くのは大変だし、メンドクサイし、聞きたくないというのもわかるけど、例えば、本人が楽しそうに、話しをしている最中に、「それ、もう、何度も聞きましたから=もう聞きたくありません」的な感じで、厳しくシャットアウトするってのは、なんというか、うっっっ!と、なってしまいます。

 

わたし自身、自分自身で話したことを、何度も忘れちゃって、同じ話をたくさんしちゃう傾向にあるのですが、どうしても、どこかで自分が話したということを、結構激しく忘れちゃうんですよね。

 

迷惑な話しなのかもしれませんが、うちの母も何度も同じ話しをする傾向があるので、DNAかもしれませんし、もしかしたら、年齢的な問題なのかもしれません。

 

申し訳ないなーと思いつつ、そんなに厳しく突っ込まなくても・・・いいじゃん、と、シュンとしてしまうこともあります。

 

わたし自身も、自分のことは棚に上げて、「それ、何度も聞いたよ」と言ってしまうこともあるのですが、なるべく、できるだけ、本人が誇らしげに、楽しそうに話をしている時は、うん、うんって、何度も聞くように心がけています。

 

特に年配の方々は、同じ話を何度もする傾向にありますからね。

 

以前に聞いた話でも、やんわりと、方向転換して、話しの深堀をしてみるとか、話しの幅を広げてみるとか、そんな優しさを持てる人間になりたいなと、わたしは考えています。

 

自分に合わせた無理な要求をしない

 

頭が切れる人、仕事ができる人、要領が良い人は、頭の回転が鈍い人、仕事ができない人、遅い人、要領が悪い人のスピードと気持ちを無視しがちです。

 

自分が何の苦も無くできることを、誰でも同じようにできると思い込んで、それを周りに要求したら、まわりにいる人は不幸です。

 

特に、自分が苦手なことを、自分の能力以上のアウトプットを求められた日には、ストレス極まりないです。

 

本人がそれを心から望んでいるのならまだしも、本人が全然望んでいないところに、

 

なんで、できないの?

なにが、わからないの?

まだ、できないの?

なんで???

 

って言われることほど、辛いものはありません。

 

わたし自身もそうですが、不得意で苦手なことは、極力目をつぶって、自分ができることや、好きなこと、得意なことに注力し、長けている能力、もしくは好きと思えることを伸ばしたほうが、本人も楽しいだろうし、きっと、結果も出しやすいと思うのです。

 

わたしは単純作業が苦手で、同じ作業を確実にやるというのは、向いてません。

 

どちらかというと、フリーウェィで、いろいろ考えたり、実行してみたり、人と話しながら何かを作業をすることのほうが得意ですし、好きです。

 

こんな私に、100%間違えないでね!!っという先輩のもとで、オペレーション(ルーチン作業)をやる状況に置かれたら、わたしの個性は完全に死にますし、わたしはつまらなくて仕事を辞めちゃうと思います。

 

わたしは、意図も簡単に、辛いことから逃げてしまうタイプの人間です。

 

心が病んじゃうぐらいなら、いっそのこと、ずるくても、逃げちゃったほうがいい、と思っています。

 

ひとは、自分が興味のないこと、つまらないこと、苦手なこと、嫌いなことからは、極力遠いところで生きていたいものだと思うのです。

 

少なくとも、わたしは。

 

だから、その人の好さや、持ち味を活かした仕事の分担や、仕事の仕方をしていくほうが、理にかなっているんじゃないかなぁ~と、勝手に思いながら生きてます。

 

byちびまる